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life of "love the life"

身体と空間の芸術 : 草間彌生 永遠の永遠の永遠

2012/4/7。京阪で大阪市・中之島へ。国立国際美術館で『草間彌生 永遠の永遠の永遠』。最終日の前日に滑り込み。

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美術館に着くとまさかの長い長い行列。現代美術の展覧会であるとは言え「クサマ」の認知度は別格なのだと改めて思い知らされた。幸い入れ替えはスムーズで、待ち時間は屋外で15分、屋内に入ってさらに15分ほどで済んだ。上の写真はB1Fカウンターでチケット購入後、B3Fの会場入り口にたどり着くまでの途中で撮ったもの。会場外の動線上に鎮座する『大いなる巨大な南瓜』(2011)のまわりは記念撮影の人だかり。こちらの写真左は別の場所から見た南瓜と来場者の列。写真右は南瓜近景。FRPにウレタン塗装の表面は極めて滑らか。パターンはくっきりとしている。よく見ると黒をベースに黄色を重ねてあるようだったが、実際のところはどうなのだろうか。

会場入ると初っ端に『愛はとこしえ』(2004-2007)の連作。160mm×130mmほどのキャンバスをびっしりと埋めるモノクロのドローイングは、マーカーペンで即興的に描いた原画を原寸でシルクスクリーン化したもの。50点ものバリエーションがそれぞれに禍々しい美しさを放ちながら大部屋の四方に整然と居並ぶ様子は圧倒的だ。

他の作品で個人的に特に印象深かったのは『神を見つめていたわたし』、『青春を前にした我が自画像』、『青い目の異国で』(全て2011)のペインティング3連作。主に銀と黒の絵具で戯画的に力強く描かれたポートレート。

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上は立体作品『チューリップに愛をこめて、永遠に祈る』のシリーズ。下の写真も同じく。展示室中ここだけは写真撮影OKだった(別アングルの写真1写真2写真3写真4)。

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下は草間氏のサイン。

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下は赤い水玉のバルーンやFRPが設えられたチケットカウンター手前のアトリウムの様子(別アングルの写真)。

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下は1Fエントランスロビーの手前屋外の風景。しだれ桜をバックに夕空へとのびる赤い水玉。さながらテーマパークの様相だ。

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近作の平面作品を中心に据えた直球の展示内容は2004年の『クサマトリックス』『草間彌生 - 永遠の現在』とはまた異質の凄みを感じさせるものだった。見逃さなくて良かった。

草間彌生 永遠の永遠の永遠

2012年04月25日 03:20 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : ネイチャー・センス展

2010/8/25。六本木・森美術館で『ネイチャー・センス展』

会場に入るとゆったりしたアプローチの向こうに先ず見えたのが吉岡徳仁氏の作品『スノー』(2010)。1997年以降、ISSAY MIYAKEのウィンドウディスプレイなどで吉岡氏が用いて来た手法を発展させたもの。以下、写真はクリックで拡大。

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半透明なシート状の面で前後を覆われた室内に大量の羽毛が封じ込められている。室内の床には小さなファンが固定されており、断続的に風を送り出す。羽毛が吹き上げられ舞い落ちる様子は、間近にスローモーションの大波を見るようで幻想的だ。

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主な照明は右側にまわり込んだ通路奥のスペース全体を用いた面光源によって間接的に賄われていた。直接の照明を一切用いないことで、ミニマルなディテールを損なうこと無くそのままに見せる手法。見事だ。こちらはシート面の近景。左下にファンが見える。

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上の写真は同じく吉岡氏による『ウォーター・ブロック』(2002)シリーズのひとつ。レンズやプリズムなどに用いられる光学ガラスを塊のままベンチにしたもの。断面から向こう側を見るとこんな具合こちらはそのディテール。こちらは観客が居る展示室内の様子。

『スノー』の手法にも『ウォーター・ブロック』の素材にも先行する使用事例があるにはあるが、これほど大胆で、しかも極めて質の高い展示を見せつけられてしまった後では、最早誰もが吉岡氏の専売特許と認めるより他は無いだろう。そう思わせるのはまさにデザインの力に他ならない。

続いては篠田太郎氏の『残響』(2009-2010)。巨大な三面のスクリーンそれぞれに内側からビデオ映像が投影されていた。駐車場、動物園、首都高下の日本橋川、台場など。室内にこつ然と現れたフルサイズの都市に人気は無く、それを間近で見るが故に異様なリアリティが感じられる。物理的な制約を無視して編集された景観。この日最も印象的だった作品。

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スクリーンの裏側に隠れるようにしてちいさな一室で展示されていたのが同じく篠田氏による『忘却の模型』(2006)。樹脂とスチールで出来た天動説の宇宙模型。地上から湧き出た血液地平線から流れ落ち再び地上へと循環する。

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次の展示室にあったのは篠田氏の『銀河』(2010)。乳白色の液体で満たされたドーナツ型のプール。天井に取り付けられた数十個の装置から時折一斉に滴が落下し、液面に描かれた無数の波紋もまた同時に消える(近景)。重森三玲による東福寺方丈庭園東庭からの着想とのこと。

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トリは栗林隆氏。上の写真は『ヴァルト・アウス・ヴァルト(林による林)』(2010)。大きな展示室いっぱいにひろがる白い林。これは実際の樹木を阿波和紙で象って天井から吊るしたもの。そもそも樹木を原材料とする紙で出来た人工の林。観客は林の下から室内に入り、ところどころに開けられた穴から「地上」に顔を出す。気分はまるで冬眠の途中で目覚めた小動物。楽しい作品だった。こちらは「地下」と「地上」の境目の写真。栗林氏の作品としては他に『インゼルン 2010(島々2010)』(2010/全景頂上からの眺め)、『YATAI TRIP(ヤタイトリップ)』(2009-2010/全景)が出展されていた。

新作を中心に、ひとつのテーマに沿って、少数の作家による体験型のインスタレーションを大空間いっぱいにゆったりと配した内容は美術展としては非常に新鮮で現代的だと思った。今後もこうした思い切ったイベントをぜひ見てみたいものだ。

「自然」の捉え方は千差万別。他の作家による全く別の『ネイチャー・センス展』もあり得るだろう。

2011年02月13日 05:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 岡山県 犬島アートプロジェクト「精錬所」と維新派

7/31。『犬島「家プロジェクト」』を一巡りして犬島港東岸へ。チケットセンター前から延びる海岸沿いの道(下の写真)を南下。彼方の煙突を目印に『犬島アートプロジェクト「精錬所」』へと向かった。近づくに連れ、犬島みかげの石垣とガラスの建造物、煉瓦造の煙突と緑の樹々が次第に奇妙なコントラストを見せ始める。以下、写真はクリックで拡大。

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焦色をした低い煉瓦の壁で細かく仕切られたアプローチを抜けてエントランスへ。この時は精錬所敷地内の広場で維新派による『台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき』の公演日。アプローチ内には様々な食べ物や飲み物を供する屋台がひしめいていた。そしてエントランス手前に並ぶこと十数分。いよいよ精錬所内へ。

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『犬島アートプロジェクト「精錬所」』は1909年築の銅精錬所を改装したもの。操業していたのは10年ほどの間で、その後は廃墟化していたようだ。2008年に改築が施され、ベネッセアートサイト直島の施設としてオープン。設計は三分一博志建築設計事務所、インスタレーションは「家プロジェクト」と同じく柳幸典氏が手掛けている。上の写真は精錬所屋上の風景。

インスタレーションは『ヒーロー乾電池』と総称され、三島由紀夫にまつわる様々なモティーフが重厚な建造物にコラージュされた極めて大胆でスケールの大きい作品となっている。中でも『ソーラー・ロック』と呼ばれる空間には圧倒された。44トンの犬島みかげ一枚岩と三島由紀夫「松濤の家」の廃材。西日差し込む半円ドーム内に浮かび上がる記憶の断片たち。

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建物を出てさらに南へ。上の写真は広場脇の山道から見た維新派の野外劇場の様子。よく見ると巨大操り人形の「彼」が舞台裏に座って休憩中だった。

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山道を登るに連れて崩れかかった煉瓦造の煙突が迫ってくる。上の写真はそのうち最も崩壊の進んだもの。高さは5、6階建てのビルほどはあろうか。この巨大さと反り返り具合。あまりにシュールで美しい。

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敷地南端の高台から溜池を望み、放置された煉瓦壁の施設を見下ろしながら東の海岸方面へ。山道を下りきって草むらを抜けると、施設内でも一際建物らしい面影を残した発電所の跡がこつ然と現れる。上の写真がその様子。

こうした屋外動線の適度にワイルドで適度に手の入った整備具合は絶妙だ。施設内部もさることながら、ランドスケープとして見た精錬所も素晴らしい。三分一氏の他にデザイナーがいらっしゃるとすれば、ぜひお名前を伺いたいものだ。

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廃墟手前の広場から海岸沿いを再び建物へ。上の写真は丸太と針金の仮設デッキを経由して維新派の野外劇場へと向かう様子。日没の迫る中、ステージは静かに始まった。新天地を求め世界へと散らばった日本人たちの戦前戦後が淡々と、時空を超えてリミックスされてゆく。お馴染みのラップとマスゲームは『ろじ式』をも上回る見事さ。驚いたのは維新派作品としては異例に思えるほどに台詞の比重が高かったことだ。素朴で飾り気の無い言葉が胸に迫り、様々な記憶がまたここでも揺り起こされる。泣けてきた。

終演後も行きと同様、高速艇の特別便に乗り込んだ。高松へと向かう暗い海をぼんやりと眺めながら、犬島での濃密な体験を反芻するのが実に心地良かった。

犬島アートプロジェクト「精錬所」(ベネッセアートサイト直島)
台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき(維新派)

2010年12月21日 01:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 岡山県 犬島「家プロジェクト」

7/31。高速バスで高松入り。『玉藻うどん』で食事後、維新派公演のための高速艇で早めに犬島へ。先ずは『家プロジェクト』を一巡り。瀬戸内国際芸術祭2010に合わせてオープンしたベネッセアートサイト直島の関連作品群。岡山県の離島、犬島北岸の港周辺に『F邸』、『S邸』、『中の谷東屋』、『I邸』の4つが点在する。建築設計は妹島和世建築設計事務所。うち3ヶ所のインスタレーションを柳幸典氏が手掛けている。以下、写真はクリックで拡大。

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上の写真は犬島港から最も近い丘の上にある『F邸』を北側から見たところ(建物北面全景建物東面全景)。アプローチは写真奥にあたる建物南側。西側エントランスから館内へ。中央に鎮座するネオンの『電飾ヒノマル』を一周し、その左脇の出入口から外へ進むと、くねくね曲がった塀の内側をミラー張りにした『鏡の坪庭』がある。簡潔で細部の美しい木造妻入り瓦葺きの建物を通して、周辺の緑豊かな環境と大胆不敵なインスタレーションが接続する。

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港へ戻って南側にある住宅街へ。細道を抜けると曲面ガラスを連ねた建物『S邸』が登場。上の写真はその西面全景(東面全景)。柱になりそうな部材がほとんど見当たらない。驚くべき軽さ。

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ガラス内の中空にはところどころ破けて矢の突き刺さったレースが吊るされている(東側から見たガラス内の様子南側からのレース近景)。南側には若いオリーブの木々。これらが『蜘蛛の網の庭』。上の写真は北側からのレース近景。

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丘の中腹に沿った細道を西へ向かうと芝生の中に銀色のお椀を伏せたような建物『中の谷東屋』が左手に現れる。上の写真はその東面全景。こちらは西面全景。コンクリートの基礎とアルミ合金の屋根の間に立つと物音が奇妙に反響する。いくつか置かれたチェアSANAAがデザインし2005年に製品化された『アームレスチェア』のアルミバージョン。

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東屋正面の坂道を北へ下ると畑の向こうに『F邸』を若干小振りにしたような建物『I邸』が見えてくる。南側へまわると色とりどりの花畑。建物内部のプロジェクターからガラス面に対して巨大な目の映像が写し出されている。あまりにシュール。白昼の悪夢を思わせる眺めに息を呑む。

どの作品にも説明的なところは微塵もなく、集落の合間にひっそりと佇む。作家を特定したことに加え、設置エリアを小さく限ったことによって、個々の作品の繋がりが生まれている。結果として独特の強力な「磁場」のようなものをつくり出すことに成功しているように思われた。謎めいた「風景」としての建物とインスタレーション。何やら得体の知れないぞわぞわした感覚を受け取ってしまったようだ。

池沿いの道を過ぎて港を一巡り。チケットセンターから南へ延びる道を『精錬所』へと向かった。

犬島「家プロジェクト」(ベネッセアートサイト直島)

2010年12月14日 01:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年12月-2010年1月

12/11。初台・東京オペラシティアートギャラリーで『ヴェルナー・パントン展』。デジャヴと言うかなんと言うか、実に不思議な感覚にとらわれた。20年近く前から作品集で見るたび大きな刺激をもらっていた「ファンタジーランドスケープ」。本物を体験できるとなると感動で涙ぐむんじゃないかと思っていたが、いざ中に入るとまるで実家に帰ったみたいに懐かしく、すっかりリラックスしてしまった。あまりに好きで、すでに自分の一部になってしまっていたんだろうか。ビデオ映像のパントン師匠が、デザインにおいて先ず考えるのは機能、フォルムよりも重要なのは色、と語っておられたのが特に印象深い。

1/8。三菱一号館で『一丁倫敦と丸の内スタイル』。これは予想外の収穫だった。1968年に解体、2009年に復元された三菱一号館の詳細な建築的解説を中心に、3作家の写真展を絡めながら、丸の内の発展史とそこでのライフスタイルを紹介する内容。ホンマタカシ氏の作品は230万個の煉瓦を製造した中国の工場を取材したもの。神谷俊美氏の作品はこの10年間の丸の内の風景をモノクロで捉える。順路の一番最後に控えた梅佳代氏の作品は三菱一号館の復元を工事現場で支えた人々のスナップ写真。この構成はずるい。泣ける。

1/10。サントリー美術館で『清方ノスタルジア』。最終日手前の会場は着物のご婦人方で盛況。お一人でじっくり鑑賞なさっている姿が多数あった。都市部での着物ブームと日本美術ブーム、双方が定着しつつあるような。
鏑木清方は美人画があまりに有名な明治前期生まれの画家。そうした代表作もさることながら、個人的に最も関心を覚えたのは風俗画と風景画。「朝夕安居」や「明治風俗十二ヶ月」は庶民生活の描写がなんとも瑞々しい。卓越したデッサン力。「暮雲低迷」の幽玄な空気感は「松林図屏風」(等伯)を彷彿させる。三遊亭円朝の肖像、その円朝の高座に落涙する月岡芳年の肖像など、清方が明治期サブカルチャーの直中に居たことを伝える作品も興味深い。「絵をつくるに、私は一たい情に発し、趣味で育てる。絵画の本道ではないかも知れないが、私の本道はその他にない」との気概には時代を超えての共感を覚える。

1/17。両国・江戸東京博物館で『いけばな - 歴史を彩る日本の美 - 』。ややシブめの内容だが、日本のディスプレイデザインの基本を知る上では外せない。仏事の供花から書院の成立、茶花から生花の発展までを網羅。元来男のものだったいけばなが江戸時代前期以降には女郎衆の芸事として広まり、明治以降には一般女性のたしなみとなってゆく過程も興味深いものだった。初代池坊専好による大砂物の再現CGは圧巻。信じ難い贅沢さ。

1/20。青山・スパイラルで『九谷焼コネクション』。最終日に滑り込み。これは本当に見逃さなくて良かった。上出恵悟氏が伝統工芸としての九谷焼を最少限の操作によってパロディ化した陶器とインスタレーションの数々。見附正康氏といい、九谷には突出した才能が生まれる土壌がありそうだ。

1/24。日本橋・三井記念美術館で『柴田是真の漆×絵』。柴田は江戸末期から明治にかけて活動した超絶技巧の漆芸家。軽妙で洒落っ気のある作風、抜群のグラフィックセンスに大いに刺激を受けた。多くの作品は米国キャサリン&トーマス・エドソン夫妻のコレクションから。図録にあるお二人の言葉「是真という人物の中に、私たちが時間をかけてこたえていきたくなる人間性を発見したのです。」との言葉は感動的だ。

同日、銀座・松屋銀座デザインギャラリーで『碗一式』。蒼々たるデザイナー師匠方が飛騨の春慶塗の手法による汁碗、箸、盆のデザインに挑む。小さなスペースながら破格の見応え。個人的に最も欲しいと思ったのは川上元美氏の一式だった。なんと簡潔で瑞々しく張りのあるフォルム。

1/29。六本木・サントリー美術館で『おもてなしの美 宴のしつらい』。サントリーの所蔵品から日本のパーティーグッズを集め、いつもよりゆったりとフロアを使いながらの展示。
個人的ハイライトは「月次風俗図屏風」(1600年代)。六曲一隻を上下二段の画面に分け、京都庶民の12ヶ月の風俗を描いたもの。群衆の生き生きとした様子のみならず、その装束や持ち物、当時の京町家の様子も克明に極めて克明に描かれている。さしづめ「熈代勝覧」の京都版。楽しい。平安セレブの新年会のセッティングを詳細に記録した「類聚雑要抄指図巻」の実物を見ることができたことも商売柄大変有り難かった。江戸末期の料理屋の様子を透視図的に描いた広重の「江戸高名会亭尽」の存在をこれまで知らなかったのは何とも迂闊。勉強しとかないと。
他の工芸品にも「縞蒔絵徳利」、「牡丹沈金八角食籠」、「吉原風俗蒔絵堤重」、「銀象嵌花丸文手燭」などなど、デザイン的に見応えのあるものが多い。「色絵春草文汁注」他で乾山の魅力も再確認。根来の漆器類の力強いフォルム、光悦の「赤楽茶碗 銘 熟柿」も素晴らしかった。

1/30。勝どき・btfで『鏡の髪型 清水久和』。平面的な作品かと思いきや実物は物体としての存在感が凄い。素朴なフォルムのインパクト。バリエーションが一気に増えたことが作品性を一段と強化する。もはや登録商標。路線継続に期待。

同日、銀座.松屋デザインギャラリーで『重と箱 見立てる器』。『碗一式』に続いて8名のデザイナー師匠方による飛騨春慶漆器の展覧会。
今回個人的に最も印象的だったのは岩崎信治氏による菱形の重。春慶の特徴を最大限に引き出す鋭角的フォルム。深沢直人氏の手提げ仕切り重も素晴らしい。簡潔なフォルムから匂い立つ趣味の良さ。川上元美氏の作品は鼓の形態を持つ弁当箱とへぎ目を生かした縁高重。前回のミニマリズムから一転、具体的な景色を感じさせる。恐るべき懐の深さ。数寄者だ。

1/31。上野・東京国立博物館で『国宝 土偶展』。土偶ってこんな感じ?という固定概念がものの見事に崩壊した。時代によってポーズや装束などに一定のフォーマットがあるにはあるが、造形そのものは皆さん自由過ぎ。
特に印象的だったのは「縄文のビーナス」と通称される品。フォルムといい文様といい、極めて簡潔で力強い。「立像土偶」や「ハート型土偶」などはシビれるファッショナブルさ。お洒落でカッコいい。かと思えば、同時代の土偶の仲間には腰の砕けそうな品も。アヒルとカメのハイブリッドのような「動物型土製品」など全く訳が分からない。アホアホかつシュール。「釣手土器」に付いたコウモリの装飾のポルコロッソぶり、「人と頭型土製品」の深遠な表情も忘れ難い。

2010年03月02日 00:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 維新派・ろじ式

10/30。にしすがも創造舎で維新派『ろじ式』。

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にしすがも創造舎は廃校となった中学校を再利用した施設。劇場手前に当たる元の校庭には「ろじ式のろじ」と言う名の屋台村が出現していた。上の写真はその入口あたり(ろじ近景)。

「ろじ」を抜けたところには屋台村と劇場とカフェを接続する木製デッキの「露地」。その間に人の背丈を超える大きさの幾何学的なオブジェがいくつか。

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周囲に高層マンションが建ち並ぶ中、ぽっかりあいたクレーターのような空間には、まるで別の星にでも降り立った気分にさせる幻想的な光景がひろがっていた。

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パフォーマンスは劇場内の比較的小さなステージに標本箱を模したキューブ状の造形をぎっしり整然と配置した可動セットの中で行われた。維新派をマイク無しの生音の中で観るのは初めてのこと。ラップよりもミニマルミュージックに近い関西弁の羅列が時にユーモラスに、時にクールに、言葉のゲシュタルト崩壊とともに劇場を満たす。

これと言ったスペクタクルの無い淡々とした展開も、数年に一度しか維新派を見る機会の無い私たちにとってはかえって新鮮だ。数十人のパフォーマーによるダンスとマスゲームの中間的な動作は、ここ数年洗練味を増しつつある維新派作品の中でも随一の完成度であるように思われた。日本人の貧弱でアンバランスな身体でしか表現できない研ぎ澄まされた感覚。それはノスタルジックでも未来的でもある。

2009年11月14日 00:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年10月

10/2。汐留、アド・ミュージアム東京で『特別企画 広告跳躍時代 昭和の広告展3 - 1970年代・80年代 - 』。この施設へ伺うのは初めて。近藤康夫氏による総アルミのインテリアデザインはカッコ良かったが、まともにコンテンツを見せようとする気がほとんど無さそうな展示手法には萎えた。後半に気を取り直し、三木鶏郎先生のCMソングをたっぷり聞いて退散。キリンレモンも牛乳石鹸も素晴らしい名曲だ。

10/9。西高島平、板橋区立美術館で『一蝶リターンズ - 元禄風流子 英一蝶の画業 - 』。こちらも伺うのは初めて。こぢんまりした簡素な美術館で、展示手法はなんだか学園祭っぽく素朴な印象。
英一蝶の作品をまとめて見るのも初。個人的に最も心惹かれたのは意外にも『雨宿り図屏風』だった。屋敷の門前で様々な身分の人物達が雨宿りする様子が描かれた四曲の屏風。なんでまたこれを?と思うくらいに地味なモティーフだが、小技とユーモアと庶民への愛情に溢れた画面。いつまでも眺めていたくなる。『屋根葺図』、『投扇図』、『布晒舞図』、『不動図』の絶妙なストップモーション。『蟻通図』、『張果老・松鷺・柳烏図』、『社人図』の複数の軸によるコマ割的構成。江戸前期にしてすでにこんなダイナミックな表現があったとは。

10/13。下馬、tocoro cafeで『tocoro展 - 岡田直人 - 2009』。器を拝見しつつジェラートと冷えラテをいただく。tocoro cafeは3年ぶりの訪問。小泉誠氏デザインのインテリアは相変わらず居心地良く、エスプレッソ系ドリンクも美味い。岡田氏の器をまとめて拝見したのは初めて。独特の質感をもつ白釉に、ゆる過ぎずシャープ過ぎない薄手のフォルム。カフェで使用されている器の口触りの良さは実に忘れ難い。

10/15。慶應義塾大学三田キャンパスで『谷口吉郎とノグチルーム』谷口吉郎による慶応義塾大学に関する建築作品の写真展示と『ノグチルーム』の一般公開。写真はパラパラとお茶を濁す程度。『ノグチルーム』は谷口設計の第二研究室談話室で、インテリアデザインをイサム・ノグチが担当している。2004年に建物の一部ごと新しい南館ルーフテラスに移設された。
オリジナルの『ノグチルーム』が出来たのは1951年。戦後のデザイン再興期に美術作家によるインスタレーションとしての室内空間がいきなり登場したわけだ。以来1990年頃まで、日本のインテリアデザインは建築よりもむしろ現代美術と親密に同期しながら展開してゆく。私たちにとってここを訪れることはほとんど巡礼みたいなもの。午後から夕方にかけての光の中で見るノグチルームはあまりにも素晴らしかった。
造作や家具は想像よりもこぢんまりしており、互いに寄り添うような距離で配置されている。あたりまえの生活感覚と芸術が何の違和感も無く混交する室内。この場所を原点に、歩みを始めることのできた日本のインテリアデザイナーは本当に幸運だった。ノグチルーム移設にあたっての設計を手掛けたのは隈研吾氏。元の間仕切りや天井の代わりに設えた白く透けた布はやはり今ひとつ開放的に過ぎる。そのまんま移築していただきたかったなあ。

10/28。紀尾井町、ニューオータニ美術館で『肉筆浮世絵と江戸のファッション 町人女性の美意識』。江戸初期の美人を描いた屏風『舞踊図』に始まって、寛文小袖以降のハイファッションを簡潔に見せる内容。時代とともに緻密さを増し、グラフィカルに洗練されてゆく文様が、元禄を頂点にミニマルな空間的表現へと変遷してゆくのが面白い。古いものは300年ものの小袖や振袖を良好なコンディションで鑑賞。大変勉強になった。

10/30。上野、国立博物館『皇室の名宝 日本美の華 1期 永徳、若沖から大観、松園まで』午後遅くに到着すると、待ち時間こそなかったものの、中はやはりぎゅう詰め。第一会場を1時間半、第二会場を30分ほどでなんとか周り切った。
冒頭、狩野永徳常信の『唐獅子図屏風』の巨大さにいきなり度肝を抜かれた。そりゃ殿様も大喜びだろうさ、と納得。そして圧巻のハイライトは伊藤若冲『動植綵絵』全三十幅。江戸前期のシュールレアリスティックな画。驚異的細密さと画力、そしてボリューム。これが実質的デビュー作なのだから恐れ入る。現代の画家が一生かけてもこれだけの仕事を成し遂げる事は難しいんじゃないか。これだけでもうほぼお腹いっぱい。直後に見た酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』はまさに清涼剤の爽やかさだった。長沢芦雪『唐子睡眠図』、葛飾北斎『西瓜図』なども印象深い。
近現代の作品が並ぶ第二会場では並河靖之『七宝四季花鳥図花瓶』の凄まじい超絶技巧に驚愕。これが有線七宝とは信じ難い。上村松園『雪月花』は雅な筆致と斬新な画面構成にため息。松園作品は今後要チェック。

2009年11月13日 03:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年9月

9/13に西新宿・OZONE、リビングデザインギャラリーで見た『山本達雄展 空間と家具の表情』についてはこちら

同日、初台・東京オペラシティアートギャラリーで『鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人』。ロック少女の美術部活的なイメージも、ここまでのスケールとクオリティに達すると爽快なことこの上ない。ほとんどテーマパークだ。寓話と偶像を散りばめた平面作品やインスタレーションは、繊細でありながら時に巨大で、妄想的でありながら時に生々しい。どっぷりと、その世界観を堪能させていただいた。

9/17。松屋銀座7Fデザインギャラリー1953で『内田繁の厨子 新しい祈りのかたち』。内田氏デザインの厨子と、6名の作家・デザイナーによる具足を見ることができた。厨子とは仏具や教典を納める箱形の家具、具足とはここでは仏教小道具のセットのこと。祈りの道具としての機能と象徴性を、極めてミニマルな形態の中に表現する手法は、まさに内田デザインの真骨頂。薄いステンレス扉の赤の発色は深く鮮やかで、心に染み入るように思われた。

9/26。21_21 DESIGN SIGHTで『TOKYO FIBER '09 SENSEWARE』。様々なクリエーターとメーカーのコラボレーションによって、ハイテク人工繊維が主素材のプロダクトを試作、提案する展示会。事前情報では『笑うクルマ』(日産デザイン本部+原デザイン研究所)が目玉として紹介されていることが多く、正直なところやや敬遠気味。しかし足を運んでみると見るべき作品が多数。実に楽しく、勉強になった。個人的には『風をはらんでふくらむテーブルクロス』(シアタープロダクツ)と『柔らかく隆起するソファ』(アントニオ・チッテリオ)、『モールディング不織布による立体マスク』(ミントデザインズ)が特に印象的。素材の持ち味を最大限に引き出しながら、さりげなくディテールにまで気の利いた作品だった。

9/27。パナソニック電工汐留ミュージアムで『建築家 坂倉準三展 モダニズムを住む - 住宅、家具、デザイン』。最終日の閉館間際に滑り込んでセーフ。坂倉準三がこれほど多くの木造住宅を手掛けていたとは全く知らなかった。コルビュジェの直弟子として学んだ経験と、日本人として身に付けたヴァナキュラーな感覚が、活動の最初期から一貫して違和感無く自然に調和している。陸屋根にもピロティにもまったく執着せず、単なるスタイルではない本質的なモダニズム建築を展開する姿勢に深く感銘を受けた。ああ不勉強が悔やまれる。

2009年10月16日 16:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年8月・2

こちらからの続き。

8/21に六本木・AXISギャラリーで見た『ナインアワーズ展 - 都市における新しい宿泊のカタチ』についてはこちら

8/24。六本木・21_21 DESIGN SIGHTで『山中俊治ディレクション「骨」展』。「生物の骨をふまえながら、工業製品の機能とかたちとの関係に改めて目を向けます」と言うコンセプトに最も深く合致した作品は、やはりニック・ヴィーシー氏の『X-RAY』シリーズと、玉屋庄兵衛氏と山中俊治氏による『骨からくり「弓曵き小早舟」』だろう。他の作品も補足の役割を十分に果たし、一貫した楽しい展覧会となっていた。「電信柱を取り上げて欲しかった」との三原昌平氏の感想は興味深い。

8/30。千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館の第3展示室で『百鬼夜行の世界』。展示替えのため、オリジナルとされる大徳寺真珠庵蔵の『百器夜行絵巻』(1500年代・伝土佐光信)を見ることが出来なかったのは残念。それでも室町の頃から繰り返し描かれ、時代ごとに変容した『百鬼夜行』のうち主立ったものを一同に見ることができたことは貴重だ。万物から霊性を感受し、それをユーモラスに「キャラ」化してしまう日本人の、ひとつの原点がここにある。中でも伝土佐吉光とされる絵巻の、暗雲立ちこめる妖しいエンディングには心惹かれた。

同日、同館企画展示室で『日本建築は特異なのか - 東アジアの宮殿・寺院・住宅 - 』。先ずは床面にシート貼りされた長安、ソウル、平安京の同寸配置図を眺める。似通った骨格を持ちながらも、結局のところ三者三様の様相を呈しているのが面白い。宮殿、寺院、住宅、それに大工道具についても同様だ。展示手法的にキャプションに頼り過ぎでは、とは思ったが、結局のところ「特異」なのは日本建築だけではない、と言うことは理解できた。精巧な展示物の数々の中でも平等院鳳凰堂の実物組物彩色模型は忘れ難い。表面を埋め尽くした鮮やか過ぎる文様のなんとサイケデリックなことか。

同日、佐倉市美術館で『オランダデザイン展』。ドローグの名作の数々に今では懐かしさと新鮮さの両方を覚える。歴史になったんだな。マーティン・バース『スモークチェア』は実物を初めて見た。焼け跡のエレガンス。実にクール。この展覧会の個人的ハイライトは中盤のポスター作品群だった。簡潔な平面に上位次元をするりと忍び込ませるような、巧みな表現が多く見られる。まるでパラレルワールドの覗き窓だ。終盤に展示されたリートフェルトモンドリアンらのデ・スティル関連作品も見応えがあった。

2009年09月22日 12:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年6,7月

6/11。清澄白河・東京都現代美術館で『池田亮司 +/- [the infinite between 0 and 1]』。過剰なほど明瞭なコントラストを伴い、もしくは認知できるギリギリの微小な差異とともに、白と黒と数列とが厳密に対置された空間。ビデオプロジェクターによる巨大で高精細な映像、フォトプリント、正弦波のサウンドなどで構成されたインスタレーションの中で、私たちは自らが無限のデータのうちに解放されるような至福と、ノイジーで変数的な生々しい個としての実体とを交互に覚える。数学については知識もセンスも無いため、作品コンセプトを十分に理解することはかなわなかったが、この凄まじい体験は極めつけだ。東京都現代美術館の企画展示室がこれほど贅沢に、しかも有効に用いられているのを見たのは初めて。見逃さなくて本当に良かった。

6/14。六本木・Gallery le bainで『TONERICO:INC. Case Study 01 [STOOL]』。ホワイトアッシュの成形合板による至ってシンプルな16の形状のスツールがそれぞれ柾目・板目の木取りで計32タイプ。基本形から徐々に展開されたと言うデザインスタディをそのまま提示した微妙なバリエーションは、まるで八百屋のカゴに整列した果物や野菜を見るようでなんとも楽しく微笑ましかった。

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6/23。外苑前・PRISMIC GALLERYで『ISOLATION UNIT / 柳原照弘展「real fake」』。大阪を拠点に活動する柳原氏は今その動向が最も気になるデザイナーの一人。パスタの形状をそのまま金属に置き換えたジュエリー。見慣れたものから思いがけない美しさがひき出される不思議。展覧会としてはかなりボリュームが少なかったのが残念だが、それもまた狙いなのかもしれない。

6/26。勝どき・オオタファインアーツで『見附正康展』『イ・スーキョン展』。九谷焼赤絵の作家・見附氏による大皿4点。細密な絵付けは以前の展覧会よりもさらに自由度を増し、グラフィカルになっていた。いつか必ずや購入したい。
全くノーチェックだったイ・スーキョン氏のインスタレーションは思いがけず素晴らしいものだった。韓国のトラディショナルな陶器を破砕、シャッフルし、原形無視で金継ぎした、いびつなフォルムのオブジェたちが、天井から吊るされた軽量鉄骨のフレームに並ぶ蛍光灯に照らされ、ぬめるような光沢を放つ。その様子は実験室で培養された生物群、あるいは『AKIRA』ラストシーン近くの鉄男を彷彿させる。辰砂による赤い線で描かれた大きなドローイング2点も圧巻。

7/23。六本木・Gallery le bainで『内田繁展 2009 NY展へ向けて ぼやけたもの 霞んだもの 透けたもの ゆらいだもの』。手前のオープンスペースには合板を切り抜き組み合わせた樹木のオブジェと立礼の茶席。ギャラリーに入るといつもは白い壁面が真っ黒に塗られ、カラフルなメラミン化粧板をグリッド状に造作した「棚」がずらりと取り付けられていた。最奥の概ね完全な形状から次第にその部分が欠落し、やがて断片化して手前側の壁一面に飛び散るその様子は、メンフィス的である以上にソル・ルウィットのキューブやドナルド・ジャッドの後期作品との関連を感じさせる。フロアには2007年の展覧会にも登場した半オブジェ・半家具の「ムー」が数体。その上には水の入った撹拌装置付きの黒い箱がふたつ。それを通過した強い照明が足下で揺れる。徹底してドライでコンセプチュアルな空間表現に対して、「ムー」の存在はいかにも野蛮で無邪気だ。そのユーモアと違和感、そしてある種の不気味さが、いま内田氏の心中にある「わび」なのだろうか。

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2009年07月30日 12:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 展覧会行脚のメモ 2009年5月

5/2。府中市美術館で『山水に遊ぶ 江戸絵画の風景250年』。江戸時代の人々による多様な「風景」の捉え方を紹介する展覧会。個人的にとりわけ記憶に残ったのが秋田蘭画の作家・小田野直武(おだのなおたけ/1749-1780)の一連の作品。小田野は平賀源内のもとで西洋画を研究した経歴を持つ。深い陰影をたたえた写実的な描法と大胆な余白を用いた構成。独特の空間感覚を伴う無国籍で叙情的な画面は極めて個性的だ。曾我蕭白が持てる技法をこれでもかと詰め込んだ六曲一双の大作『月夜山水図屏風』も期待以上の凄さ。

同日。青山・CLEAR GALLERYで『スズキユウリ The Physical Value of Sound』。アナログレコードの仕組みをバラバラに解体、再構成したガジェットの連作。単なるサウンドインスタレーションであることに留まらず、軽やかにメディアを越境してゆくコンセプトが実に痛快だ。それは塩化ビニルの円盤に極細の溝を与えた彫刻であり、無形の情報そのものでもある。

5/3。パナソニック電工汐留ミュージアムで『恵みの居場所をつくる ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』。ヴォーリズのデザインする建物は、機能上・宗教上の要請に基づいて細部を丁寧に集積してゆくことで、いかにも自然に立ち表れる。その佇まいは、一定のシステムで全体を貫こうとする今時の建築的な力技からは見事に切り離されており、自由で、風通しの良さを感じさせる。大丸心斎橋店以外の作品を実際に見たことがないのは問題だ。いつかちゃんと訪ねてみなくては。

5/15。六本木・サントリー美術館で『一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子』。江戸末期の数十年のみ興隆した薩摩切子の全貌を概観。冒頭では薩摩切子のスタイルに直接影響を与えたとされるアイルランドとボヘミアのカットガラスをそれぞれいくつか見ることができた。ポスターなどの主要なビジュアルとして用いられていた『薩摩切子 紅色被皿』は直径18cmあまりの小品ながら、その妖しさは想像を遥かに超えるものだった。もし復刻されたりしたら後先考えずに買ってしまいそうで恐ろしい。篤姫所用と言われる『薩摩切子 雛道具 1式』のミニチュア精度にも驚愕。

5/21。京橋・INAXギャラリーで『チェコのキュビズム建築とデザイン 1911-1925』。ヨーロッパのデザイン・建築においてモダニズムが勢いを増す最中、よりヴァナキュラーなスタイルを目指し、当時オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったチェコで模索された「キュビズム運動」を紹介する内容。ヨゼフ・ホホル、ヨゼフ・ゴチャール、パヴェル・ヤナークの3人の作品が展示の中心。左官で仕上げられ、入り組んだ幾何学面の構成を特徴とする建物は、総じて簡素であると同時に今なお新鮮で力強い印象を残す。直接の関係は無いものの、その造形感覚がどことなくレーモンドに共通するように思われるところが面白い。

同日。松屋銀座7Fデザインギャラリー1953で『イラストレーター河村要助 good news』。雑誌『Bad News』の表紙でお馴染みの河村氏の原画を小さなスペースにどっさり詰め込んだ展覧会。路上の猥雑な臭いが漂い、音楽が聞こえてくる。都会のプリミティブアート。

同日。ギンザ・グラフィック・ギャラリーで『矢萩喜從郎展 Magnetic Vision/新作100点』。槙文彦氏や谷口吉生氏とのコラボレーションでも有名なクリエーター、矢萩氏のグラフィックアート展。同じコンセプトでデザインされた同サイズの大判ポスターが1FとB1Fのスペースに至って単純に並ぶ。写真画像は網点がひとつひとつ判別できるほどに拡大されており、その中央にある白く縁取られたサークルの中に縮小されたイメージが収まっている。ポスターを見るに連れ、周辺から中心へ、中心から周辺へと視覚はダイナミックに誘導され、幻惑される。極めつけにクールで暴力的だ。

5/27。乃木坂・ギャラリー間で『20 クラインダイサムアーキテクツの建築』。既成の行灯看板を流用した作品展示と、クリスタルガラスにミニチュア建築を封じ込めたオーナメントたち。作品それぞれのコンセプトを伝える目的はほぼ放棄されている。ディスプレイとしては楽しい。

同日。西麻布・ギャラリー夢のカタチで『「倉俣史朗 To be free 」藤塚光政展』。倉俣作品の記録であると同時に、写真作品としての圧倒的な力を痛感させる直球の展示手法。二十数点のなかでも個人的に最も惹き付けられたのが『Carioca Building』。1971年当時の銀座の街並、ガラスとアルミのビルファサード、ミニマルなカフェのインテリア、それらを行き交う人々がモノクロの画面に重層する。商店建築1971年11月号に掲載されている写真だが、プリントのもつ迫力は別物だ。何としても購入せねばと売価を尋ねてはみたものの、先立つものが全く足りず断念。いつか必ず。。。

2009年06月27日 05:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年3,4月

3/6。青山・ワタリウム美術館で『島袋道浩展:美術の星の人へ』。島袋氏がゆるゆると手掛け続けるアートプロジェクトのうち、2001年から2008年までに手掛けられた十数点を主にビデオによって紹介する内容。オオタファインアーツで見た『シマブクロ・シマフクロウ』(1996)からいつの間にやら十数年。その作風はますます下らなさを増し、洗練され、強靭になっていた。探し物が見つかったり見つからなかったり、思わぬ出会いがあったり無かったりのプロジェクトは、どれも格好良く収束することはなく、ただ漫然と拡散してゆく。作品も下らなければ、それをぼんやり眺める私たちもまた実に下らない。生きてるってそんなもんだよね。と思ったり思わなかったりしながら会場を出た。何より最高だったのが『自分で作ったタコ壺でタコを捕る』(2003)。タコが捕れた瞬間の皆の嬉しそうな顔!、そして岸から海へと還されるタコの姿が忘れられない。

3月某日。初台・東京オペラシティアートギャラリーで『都市へ仕掛ける建築 ディーナー&ディーナーの試み』。これを見逃さなくて本当に良かった。スイス・バーゼルを拠点にヨーロッパ各地のプロジェクトを手掛けるD&Dの展覧会。彼らのデザインする建物は都市景観の中で擬態するように、あるいはひっそりと佇むように存在し、何らこれ見よがしなところがない。そこに周到に仕組まれた規則性と精緻なディテールが、日々建物を訪れ通り過ぎる人々の生活の中へと、美しい旋律を響かせるだけだ。会場の展示デザインもD&Dの手による。通常の展覧会では閉じられているギャラリー2手前の戸が、ここでは大きく開かれエントランスへと通じていた。些細なことながら、いつにないその風通しの良さが心に残る。チラシやポスターの「窓からの眺めも、私の部屋の一部なのでしょうか?」というコピーに『東京窓景』を思い出した。

3月某日。上野・東京都美術館で『「生活と芸術 - アーツ&クラフツ展」ウィリアム・モリスから民芸まで』。モダンデザインに反商業主義の遺伝子を組み込んだ男、モリスのことが最近とみに気になっている。タイミングよく拝見できてラッキーだ。会場冒頭、「役に立たないもの、美しいと思わない ものを家に置いてはならない」というモリスの言葉にいきなりガツンとやられる。ジョン・ラスキンのスケッチにはじまり、イギリスから中央ヨーロッパ、ロシア、北欧へのアーツ&クラフツのひろがりを一通り見ることができたのは有り難い。フィリップ・ウェッブのモダンな感覚、モリスのタペストリーの精巧さ(しかもかなり大きい)も印象的だった。後ろ1/3の日本の民芸運動に関するエリアにも見るべきものは多かった。でも全体としてはやや蛇足だったかも。

4/3。谷中・SCAI THE BATHHOUSEで『光の場 - 大庭大介』。7.5m×2mの大作を含む淡いパールカラーで点描された森の樹々のシリーズが素晴らしかった。角度によってその表情がダイナミックに変化することから、見るものは自然と身体を動かし、さながら絵の中を散策するような気分になる。ギャラリーを出ると、墓地周辺のあちこちで咲く満開の桜がこれまた点描の風景だった。
さらに同時開催の展覧会を見に4/5に恵比寿・magical ARTROOMへ。こちらは同様の画材を用いながらもぐっと抽象的な作品シリーズ。光学的イリュージョンの試行としてはより分かりやすいものの、細部に残る手仕事の跡がノイジーに感じられる。やっぱり森が好き。

4/5。パルコファクトリーで『浅田政志写真展 浅田家 - あなたもシャッター押してみて』。実在の「浅田家」であるご両親と兄弟の四人家族全員が揃って、大掛かりながら微妙にゆるいコスプレ(と言っても題材は「消防隊員」とか「ロックバンド」とか「選挙カー」とか)でおさまった写真がずらり。滑稽極まりないその様子が、やがていとおしくなる。なんて楽しそうなんだ、この家族は。馬鹿馬鹿しいくらいに単純であり、ハッピーであることが、なにより鋭く心に刺さり、泣ける。

2009年05月23日 16:37 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年2月

2/14。銀座・巷房で『佐藤卓展「2つの実験」』。巷房は奥野ビルディング(旧銀座アパートメント)内に3つのスペースをもつギャラリー。奥野ビルディング(鉄筋コンクリート造7階地下1階建)は1932年築。西条八十、吉田謙吉(参考)らが入居した由緒ある古ビルだ。設計を手掛けたのは川元設計事務所とされており、この「川元」が川元良一だとすると、奥野ビルディングは同潤会アパート九段会館(旧軍人会館)の兄弟、と言うことになる。
さて、先ずは地下へ。小部屋が1室と階段下が展示スペース。小部屋には円筒形の台が置かれ、その天面に小さな人形が埋め込まれていた。レトロでバタ臭い様式のキャラクターは、上方から投射されるビデオプロジェクターの映像や光で刻々と表情を変え、やがてたどたどしい子供の声色で「いろは」を順に喋りはじめる。固有の表層を持たないアウトラインデータとしてのキャラクター。階段下ではその様子をビデオモニターを介して見ることができた。照明が落とされたフロアはビルのつくりと相まって、いかにも怪しい実験室の様相。
3Fのギャラリーに入ると、一辺30cmほどの木の小箱が床上にずらりと並ぶ。数にして50ほど。透明の上蓋を通してひらがながひとつずつ収まっているのが見える。ひらがなは白い紙がゆるやかに変形しながら積み重なることで立体化されており、それぞれに特徴的なボリュームを持つ。質感を伴ったオブジェクトとしての文字。「い」には「い」らしいかたち、「ん」には「ん」らしいかたちが与えられているのが楽しい。いや、しかし、地下の展示を思い返すとなんだか不気味だ。ここでは実体と非実体が容易に入れ替わり、その曖昧な境が現実世界を浸食するように思えて来る。小さいながら、とても印象深い展覧会だった。

佐藤卓デザイン事務所

同日。六本木・サントリー美術館で『国宝 三井寺展』。個性豊かな仏像群に目を奪われた。中でも不動明王立像(通称:黄不動尊/鎌倉時代・13世紀)は凄かった。息づかいが聞こえてきそうな生々しさと、近寄り難い高潔さを同時に感じさせる佇まい。如意輪観音菩薩坐像(平安時代・10世紀)のしなやかなポーズ、毘沙門天立像(小振りでリアルな方/平安時代・10世紀)の凛々しさ、阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)の超絶ディテール、十一面観音菩薩立像(平安時代・9世紀)の愉快な四頭身、新羅明神坐像(平安時代・11世紀)の繊細な造形とミステリアスな表情も忘れ難い。狩野光信の障壁画は個人的には今ひとつ。

2/24。銀座・ギャラリー現で『倉重光則 - 不確定性正方形 - 』。ガラス部分を鉄板で閉ざされたドアを開け、ギャラリーに入ると床一面がこれまた鉄板で綺麗に覆われていた。まるで重力が増したような錯覚を覚えながら壁面へ目を向けると、ビデオプロジェクターから白い正方形が投射されている。明滅する正方形とギャラリーの床壁の際を、それぞれ一部分ずつ赤いネオン管が縁取って不完全な領域を強調する。軽やかさと重厚さ。静けさと凶暴さ。極めつけに単純で、体験的なインスタレーションだった。
眺めていると、なんと倉重氏ご本人からお声がかかった。ギャラリーのスタッフの方からコーヒーをいただきつつ、初期の作品とアメリカのミニマル・アートとの偶然の同時性について、昨年開催された赤坂アートフラワー08で自分の作品を見るために行列に並んでみたこと、などなど、貴重なお話や愉快なお話を伺う。私たちにとって奇跡のような数十分だった。ギャラリーを出てから感激がじわじわと。作品の厳しい抽象性からは全く想像のつかない気さくなお人柄にかえって面食らってしまったことが悔やまれる。願わくば日本のミニマリストたちが体験した1970年前後の空気感について、もっとお話が伺ってみたい。

倉重光則(JDN)

2009年03月10日 04:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2009年1月

1/16。日本橋三越本店新館7階ギャラリーで『画業40年 東京芸術大学退任記念 田淵俊夫展』。画家・田淵俊夫氏の手掛けた1966年から2007年までの主要な作品が一堂に。すべてが日本画のテクニックで描かれてはいるものの、用いられた多様なモティーフと手法に触れるうちに、それらを敢えて「日本画」と呼ぶことの無意味さを痛感する。水墨画ですら現代的な絵画として自然に受け入れられるくらいにストレートでニュートラルな田淵氏の表現が、厳しい写実によって支えられていることは興味深い。女竹の細密で瑞々しい輪郭をふわりと覆う緑色の霞。金色の海面にぽつんと浮かぶ一艘の船。深い藍色に塗り込まれた何気ない都会の風景。目の前に在る圧倒的なリアリティに、私たちはほとんど愕然とした心持ちになった。自身が感じた事物をこれほど真摯に作品化することが、果たして私たちに可能だろうか。

同日。日本橋高島屋8階ホールで『智積院講堂襖絵完成記念 田淵俊夫展』。計60面の墨絵の襖がゆったりと展示された贅沢な空間。三越の後で見ると、一連の襖絵がこれまでの田淵作品の集大成としての意味合いを持つものであることがよく分かる。5室のうち、最も強い印象を受けたのは、秋の情景を描いた『智慧の間』。無数のレイヤーを重ねたような奥行きを感じさせるすすき野が、一発勝負の墨で描かれたものであるとは信じ難い。枝一杯に実をつけた柿の木は、田淵氏の言う「寂しさ」よりも、むしろ爆発的な生命の喜びを強く感じさせた。

さらに同日。六本木・21_21 DESIGN SIGHTで『第4回企画展 吉岡徳仁ディレクション「セカンドネイチャー」展』。全体に作品の成り立ちや背景に関する解説が乏しく、一般向きの内容とは言い難い。メインの展示室は全て吉岡氏の作品に割かれており、ほぼ個展の様相。場末に追いやられた他の7組がなんだか気の毒ではあったが、あからさまにアンバランスなスペース配分はある意味見物だったかも。
特に印象的だったのは東信氏(あずままこと/フラワーアーティスト)とロス・ラブグローブ氏の作品。骨の組成を下敷きにした光造形によるスタディモデル『CELLULAR AUTOMATION Origin of Species 2』(ラブグローブ作/2008)は、そのレゴブロックさながらの不完全さがかえって自然の造形のエレガントさを思い知らせる。わさわさの葉っぱをトルソに組み合わせた『LEAF MAN』と五葉松を氷漬けにした『式2』(どちらも東作/2008)は、乾いたユーモアの刃で命の本質へ斬り込む。瞬殺的。他方、中川幸夫氏の作品『迫る光』(1980)は断ち落とされたような片腕を象った透明なガラスのオブジェ。植物どころかまったくの無機物であるにも関わらず、生々しいことこの上ない。逆説の生け花。期せずして見応えある新旧フラワーアーティスト対決を楽しませていただいた。

1/23。京橋・INAXギャラリー1で『デザイン満開 九州列車の旅』水戸岡鋭治氏(ドーンデザイン研究所)がデザインを手掛けたJR九州の車両の数々を紹介する内容。スケッチや図面、実際に使用されている部材や資材などがギャラリー狭しと詰め込まれていた。ここでの水戸岡氏のデザインの対象は車両本体だけでなく、ロゴやポスターなどのグラフィック、椅子とその張地、乗務員のユニフォーム、弁当のパッケージにまで及ぶ。結果として、水戸岡氏はほとんど都市環境規模と言えるくらいのクリエイティブディレクションをやり遂げてきた。『つばめ』や『ソニック』などの言わずと知れた代表作の影には、地味ながら魅力的なローカル車両が数多く存在する。その丁寧なデザインがあたりまえのように生活に馴染んでいる様子は感動的だ。列車に乗ることを目的に、また九州を旅してみたくなった。

2009年02月22日 08:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : パフォーミングアート観覧メモ 2008年後半

8/2。国立能楽堂で『納涼茂山狂言祭2008』。演目は『船渡聟(ふなわたしむこ)』、『蝸牛(かぎゅう)』、『髭櫓(ひげやぐら)』。
船頭(茂山千之丞)と聟(茂山宗彦)の能天気な掛け合いが微笑ましい『船渡聟』。“ちりとてちん”宗彦氏のいかにも意志が弱そうな感じが素敵。ほのぼの。『蝸牛』の印象が弱かったのは、たぶん以前に見た野村萬斎氏が鮮やか過ぎたせい。『髭櫓』はDV亭主(茂山千五郎)と女房軍団の荒唐無稽な対決シーンがあまりに馬鹿馬鹿しくて爆笑。いつもながら、千五郎氏の演じる強面キャラはなんとも魅力的で味わい深い。

9/21。彩の国さいたま芸術劇場大ホールで勅使川原三郎『Here to Here』(1995初演)。三方と天井を白い面が囲うステージ。完璧にフラットな空間。そこには勅使川原氏の動きだけが対置され、影さえもすっかり消去されている。一体どこから照明が当たっているのか。途中、氏が壁際ぎりぎりにまで近づくと、ようやくその影らしいものがうっすらと現れるが、壁から離れても影は消えずに残る。目を疑うようなシュルレアリスティックな光景に思わず息を呑む。
やがて天井がゆっくりと落下し、勅使川原氏がその下敷きとなる場面で、ようやく私たちは白い面が弾力性のあるファブリックで出来ており、その裏側からの照明によって空間全体が行灯の状態となっていることを推測する。先ほどの影は、壁の裏側に居た別のダンサーの影だったのだ。さらに宮田佳氏と佐東利穂子が登場し、ダンスに巨大な影絵の演出を交えながらステージは賑々しく展開。やや唐突な印象の幕切れへと向かう。ミニマルな中に、後の勅使川原作品の雛形がぎっしりと詰まった野心作。見応えがあった。

10/3。世田谷パブリックシアターで山海塾『降りくるもののなかで - とばり』(2008初演)。背景にひろがる星空。ステージ一面に象牙色の細かな砂が敷かれ、中央には砂漠のオアシスを思わせる巨大な楕円形の鏡面。その裏側に仕込まれた無数の白色LEDが、途中鏡面を星空へと変換する。それを周回したり横切ったりしながらさまざまな動作を見せるダンサーたちの様子は、なんとも奇妙でユーモラスだ。やがて夜明けとともに沈黙が訪れる。前回に見た『時の中の時 - とき』の純粋・高潔さとは一変した、とめどなく具象の溢れ出すような演出。こんな山海塾もまた楽しい。

2009年02月20日 13:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年11,12月

11/1。江戸東京博物館で『ボストン美術館 浮世絵名品展』。江戸中期から幕末までの浮世絵を網羅する内容。懐月堂派にはじまり、鈴木春信鳥居清長喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎歌川広重歌川国芳らの作品がぎっしりと居並ぶ様は壮観。見終えてぐったり。画面を覆う繊細なエンボスは数百年の時を越えて未だ生々しい。
春信の作品をまとまった数で見たのは初めてのこと。簡潔で、女性的で、なんとも可愛らしい。写楽の後期作品(全身像の役者絵)には印刷物を見る限りではさほど魅力を感じなかったが、実物はやはり力強い。ポスターにも使用されていた歌川国政の作品は、少数ながら期待を上回る素晴らしさ。生命感漲る輪郭線によってキャラクター化された役者のクローズアップ。極めつけに現代的でグラフィカル。

11/7。田町・ AATロビーギャラリーで『武藤奈緒美作品展 空想文学旅 VOL.1』。文学作品に寄せた三重・和歌山の風景写真。展示手法としてはやや散漫な印象だったものの、写真から伝わる空気感はガツンと濃密。妙な言い方かもしれないけど、まるで人物写真のような風景写真だ。『かわら版』などで撮り続けておられる落語家の写真展をぜひとも見たい。

12/16。ギャラリー間で『安藤忠雄建築展 挑戦 - 原点から - 』。原寸大『住吉の長屋』に度肝を抜かれた。ギャラリーと屋上テラスを隔てるガラススクリーンを取り去り、2つのフロアに跨がっての完全再現。単純明快で破壊力満点なこのやり方はいかにも安藤氏らしい。極小の敷地に最大限の自然を取り込みつつも周辺環境から隔絶された室内には、さながら孤島のようなユートピア性が感じられる。他にもいろいろ展示されていたような気がするが、『住吉の長屋』のおかげですっかり記憶から吹っ飛んでしまった。

2009年02月11日 13:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年10月

10/7。パナソニック電工汐留ミュージアムで『村野藤吾 - 建築とインテリア ひとをつくる空間の美学』。村野と共働者たちの「手」の痕跡が心に残る展覧会だった。『十合百貨店(心斎橋そごう)』(1936)の階段手摺の原寸図、『世界平和記念堂』(1954)のために描かれた無数のファサードスケッチ、『新高輪プリンスホテル(グランドプリンスホテル新高輪)』(1982)客室入口枝折戸の原寸指示図など。『日生劇場(日本生命日比谷ビル)』(1963)天井の試作とスタディ模型の側には、粘土を削るための道具や模型の曲線を計るために手作りされた道具(枠にはまった百本くらいの木片を模型に押し付けてそのラインをトレースする)が生々しく置かれていた。最晩年の作品である『谷村美術館』(1983)の外観スタディ模型からは今でもはっきりと湿った粘土の臭気が感じられる。そこにはまるで村野の気配が立ちこめているようで、思わずぎくりとした。年譜を改めて見ると、主要な作品のほとんどが60歳代から80歳代までの20年間ほどの間に設計されていることが分かる。建築家とはかくも体力勝負だ。図録末尾にある隈研吾氏の寄稿「商品の対極にあるもの」は必読。

10/13。東京オペラシティアートギャラリーの『トレース・エレメンツ - 日豪の写真メディアにおける精神と記憶』に駆け込んだ。最終日の閉館20分前。古橋悌二の『LOVERS - 永遠の恋人たち』(1994)だけを鑑賞。1998年に青山スパイラルガーデンで行われた展示以来ちょうど10年振りの体験。
真っ黒な壁で正方形に区切られたスペース。その中心の回転台上にはビデオプロジェクターとスライドプロジェクターが各数台。壁面には全裸の人体がぼんやりと写し出され、振り向き、ゆっくりと走り、止まって誰かを抱きしめるような動作を見せては幻のように消えてゆく。
私たちにとって古橋はかつて最も大きな影響を受け、今も敬愛するクリエーターの一人。墓前に参詣するような気分の十数分だった。久しぶりにお会いできて良かった。

10/17と11/12。東京国立博物館で『大琳派展 - 継承と変奏』。前期の印象は中小の名品を上手く編集した展覧会、と言ったところ。会期中に主要な展示作品の入れ替えがあり、後期に再訪した際のインパクトはより大きかった。
第一会場の中ほどに風神雷神図の主要4作品が勢揃いした様はまさしく圧巻(俵屋宗達尾形光琳酒井抱一の二曲一双屏風と鈴木其一の襖/宗達と抱一は後期のみ展示)。オリジナルである宗達の作の素晴らしさは言うまでも無い。その向かいにあった其一の作(初見)は細部の表現をグラフィカルにそぎ落とし、超ワイドな画面へと二神を解き放つ。抜群の空間センスを痛感させる野心的改作。間に挟まった光琳と抱一はやや居心地が悪そうに見えた。
終盤にあった其一作『夏秋渓流図屏風』(初見/後期のみ展示)も期待を遥かに上回るもの。林立する杉の幹の太いラインで分断されたぶつ切りの画面に、極彩色の琳派モティーフが大胆に配置される。ぞっとするような鮮烈さ。

10/28。ギンザグラフィックギャラリーで『原研哉「白」』。1Fはパッケージデザインや装丁の作品で構成され、B1Fには近年に催された展示会や展覧会での超撥水加工技術を用いたインスタレーション3点が一同に。NHK『視点・論点』で放送された「白」にまつわるトークと、『蹲』を転がり落ちる水滴の描く優雅な軌道が印象的だった。本、買おう。

同日。クリエイションギャラリーG8とガーディアン・ガーデンで『福田繁雄 「ハードルは潜(kugu)れ」』。G8には手作りの習作からパブリックアートまでを含む立体作品の数々がぎっしり。ガーディアン・ガーデンには代表的なポスター作品とそのアイデアスケッチの現物、さらには中学、高校時代の漫画作品が展示されていた。限られたスペース内に濃縮された福田ワールドが展開し、二つの会場を見終えた頃にはもうお腹いっぱい。どこまでも一貫したユーモアと美意識、そして飽くなき探究心に感動を覚えた。個人的にはやはり立体作品の思考と最終形態との馬鹿馬鹿しいまでの直結ぶりに心惹かれる。

2008年11月23日 17:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 展覧会行脚のメモ 2008年9月

9/27。三鷹で『柳家権太楼独演会』の後、日暮里へ。SCAI THE BATHHOUSEで『塩保朋子 Tomoko SHioyasu "Cutting Insights"』の最終日に滑り込み。

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エントランスのすぐそばに高さ2m以上はあろうかと思われる大作があった。合成紙を重ね、ハンダごてで無数の穴を開けたもの。壁から床にかけてだらりとしなだれかかった平面とも立体とも言い難い姿は、岸辺のあぶくか打ち上げられた珊瑚を連想させる。
小さめの立体作品やドローイングを見てから奥の展示室へ進むと、高さ6m、幅3.5mという超大判の白い紙が一枚、フロア中央やや後ろに寄せてタペストリー状に下がっていた。そのほぼ全面に、細かな有機的パターンが丹念にカッターナイフで切り抜かれており、手前上方からの強いライティングが、その影を背後の床と突き当たりの壁一面へと写し出す。見ようによって波しぶきにも、鱗に覆われた巨大生物の身体にも、木漏れ日にも、あるいは凶悪な劫火にも思われるパターンが、一度では視界に捉えることのできないくらいのスケールで猛然とうねり、とぐろを巻く。
ふたたび近づけば、その細部の緻密さと、一枚の薄い紙でしかない実体のはかなさがあらためて胸を打つ。あまりにシンプルで、かえって目の前で起こっていることが信じ難い。現代美術を見てこんな思いをしたのはずいぶん久しぶりだ。

2008年10月14日 22:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年8月

8/3。サントリー美術館で『小袖 江戸のオートクチュール』。展示作品のほとんどは松坂屋京都染織参考館のコレクション。先ずはその質的内容の高さに驚く。国立博物館でもお目にかかったことの無い優れたデザインの小袖が延々並ぶ壮観に思わず目眩いがした。染色と刺繍とを巧みに組み合わせた超絶技巧は友禅を除いてほとんど桃山時代には完成されており、江戸時代を通してそのグラフィックセンスは最高潮に達することが見て取れる。中ほどに展示された雛形本(ファッション誌みたいなもの)にはお洒落を楽しむ女性たちが「気に入ッたもやうヲ見や」とか「めづらしいひながたじや」などとおしゃべりする様子も。これまた楽しい。

8/20。ギンザグラフィックギャラリーで『THA/中村勇吾のインタラクティブデザイン』。場内に入ると黒い壁をバックにモニターが縦位置でずらりと並ぶgggではお馴染みの展示風景。階段を降りて地下のスペースへ。こちらは白い壁にPCや配線が剥き出しのワイルドな展示手法。『FFFFOUND!』のネオンサインが絶妙にハマる。そして、数十秒後に鳥肌が立った。インタラクティブな作品も含む全てのモニター展示が突如連動し、1分ごとの時報とともにthaのロゴにポーンと切り替わるではないか。カ、カッコいい。多くは既にどこかで見たことのある作品ながら、こうして見事に整理して展示されることで、その表現はより明快になり強度を増す。パソコンの画面の中でこんなに凄いことが起こっていたのか、と、あらためて感動を覚えた。それはそうと、ここの係員はなんでいつもあからさまに不機嫌なんだろうね。

8/21。スパイラルマーケットで『モノエ(森昭子 尾上耕太)古展』。陶を主素材とするオブジェや容器の展示。手のひらに収まりそうな大きさの中に、古びた佇まいと乾いたユーモアを含んだ作品の数々。フォルムと質感に対する作家の繊細な感覚が伝わる。底に家のかたちがくっついたカップと、階段がくっついたカップをひとつづつ購入。

8/22。東京国立近代美術館工芸館で『所蔵作品展 こども工芸館 [装飾/デコ]』。1室から4室までの内容が素晴らしい。高度な伝統的技術と現代的なセンスがシンプルに、かつ分ち難く結びついた20世紀工芸の名品たち。中でも田口善国(たぐちよしくに)、佐々木英(ささきえい)、音丸耕堂(おとまるこうどう)、松田権六(まつだごんろく)、磯井如真(いそいじょしん)らの漆器が印象深かった。稲垣稔次郎(いながきとしじろう)の虎の型絵染のタペストリーはグラフィックセンス抜群。加藤土師萌(かとうはじめ)の磁器飾壺は実に繊細で可愛らしい。最後の5室はほとんど秘宝館もかくや、と言った有様。過剰なアイコンにまみれたドロドロな作品ばかり。蛇足の感は否めない。

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8/22。オカムラガーデンコートショールームで『伊東豊雄×タクラム・デザイン・エンジニアリング「風鈴」』。うすはりガラスシェードのLED照明が、うねるような高低差とともに斜めのグリッドに沿って細かなピッチで配置されていた。その天井取付部にはハンマー式のチャイムが内蔵されており、下を通るとその周辺でLEDが点灯し、涼しい音が鳴る。互いに連絡し合う人感センサーの微妙なチューニング、ローテクなサウンド、半工芸的なガラスの造形の組み合わせ。なんとも不思議な感覚を覚えるインスタレーションだった。

8/27。松屋銀座8階大催場で『デザイン物産展ニッポン』。デザイン性に優れた地域物産を各都道府県別に紹介する内容。各地域におよそ1m四方のステージが割り当てられ、その脇に下がった札を帰りに提示すれば展示品を購入することもできた。ただし品物を手に取ってみることはできない。必ずしも各地域において最高の品が選ばれているわけでもない。この程度がニッポンのデザインの実力だと思われたりするとちょっと困るな、と一瞬思ったが、おそらく一般消費者の見識はそんなに甘くはないから大丈夫だろう。とは言え、見たことがないものも多かったので簡易なショーケースとしてはそこそこ楽しむことができた。iPod touch / iPhone用の解説サイトは、会場では回線の混雑のためあまり活用できず、アトリエに帰ってからゆっくり拝見した。

8/30。全生庵で『円朝コレクション幽霊画展』。江戸後期から明治期にわたるコレクションは、事前の予想以上に質の高いものだった。各々個性的な幽霊の表現は見飽きることがない。渡辺省亭(わたなべせいてい)、月岡芳年(つきおかよしとし)、歌川国歳(うたがわくにとし)、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)、高橋由一(たかはしゆいち)、尾形月耕(おがたげっこう)、伊藤晴雨(いとうせいう)、林隣(りんりん)、萩原芳州(はぎわらほうしゅう)など印象的な作品は数多い。しかしやはり池田綾岡(いけだあやおか)の『皿屋敷』の美しさは群を抜く。来年、またお菊さんに会えるだろうか。

2008年09月15日 13:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年7月

7/1。印刷博物館で『デザイナー誕生:1950年代日本のグラフィック』。日本のグラフィックデザインの最初の大きな発展期の作品が一同に会した展覧会。ポスターや包装紙、雑誌や書籍、商品パッケージなどなど、あらゆる印刷物を網羅した展示点数は500あまり。物量も凄ければ中身もまた凄い。『グラフィック'55』展の参加メンバー(伊藤憲治大橋正亀倉雄策河野鷹思早川良雄原弘山城隆一の7氏)をはじめとする先駆者たちの作品は、クオリティにおいてすでに欧米のグラフィックデザインと同列にあり、その斬新さ、力強さはいまだ色褪せることが無い。細谷巖氏による『1958年三菱化成工業のカレンダー』(1957)は鳥肌もののクールさ。三越の包装紙(白地に赤い切り絵風のもの/1950)をデザインしたのが猪熊弦一郎であることは恥ずかしながらこの日初めて知った。Mitsukoshiの文字レイアウトは当時三越宣伝部員であった柳瀬たかし(やなせたかし)氏とのこと。

7/4。成山画廊で『松井冬子について』。思いのほか小さなギャラリーで、一度に入室できるのは6人まで。前の人が出るまでしばらく廊下で待つ。その甲斐あって松井作品の精緻な画面を息のかかりそうなくらい間近に見ることができた。ところが、そこかしこにぐしゃっと無造作に置かれた多量の生花の香りがあまりにきつくて十数分で退散。それもまた展示演出のうちだったのかどうかは良くわからない。
偶然、何日か後にNHKで松井氏の特番の再放送を見た。フェミニズム方面からの薄っぺらな解釈を自信満々に押し付ける社会学者がやけに滑稽だった。ジェンダーが先か。芸術が先か。

7/8。ギャラリー夢のカタチで『「倉俣史朗+小川隆之」展』

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ギャラリー自体のオープニングでもあったため、大勢の来場者が歩道にまで溢れ出していた。ギャラリー入口のドアハンドルは『イッセイ・ミヤケ・メン』(1987)と同じものだろうか。フロアには倉俣の家具作品がいくつか(ピラミッドの家具(1968),硝子の椅子(1976/写真),ミス・ブランチ(1988/写真1234)など)。壁には小川氏の撮影した写真の小さなモノクロプリント数十枚が、3つ4つのグループに分かれてランダムに配置されていた。『エドワーズ本社ビルディング』(1969)の1人用エレベーターに『引出しの家具』(1970)が収まった写真にびっくり。松屋デザインギャラリーで催された『倉俣史朗の造形』(1973)の展覧会風景の中には渡辺力氏による序文を読み取ることができた。しかし、この日個人的に最もインパクトが大きかったのは三保谷友彦氏(三保谷硝子店代表)の粋な夏着物姿。カッコ良過ぎ。

7/10。東京国立博物館で『対決 巨匠たちの日本美術』。日本美術の蒼々たる巨匠の作を二人一組で計12のコーナーに区切って展示する内容。それぞれの個性が対比され、実に分かりやすい。楽しく、大いに勉強になった。特に印象に残ったのは長谷川等伯の『萩芒図屏風』(はぎすすきずびょうぶ/16-17世紀)。琳派に先行してここまでグラフィカルで洗練された表現が完成されていたとは。また、曾我蕭白による一連の大作(群仙図屏風(1764頃),寒山拾得図屏風(1759-62頃),唐獅子図(1764頃))のエキセントリックさには度肝を抜かれた。俵屋宗達による『蔦の細道図屏風』(烏丸光広賛/17世紀)のミニマルな表現も忘れ難い。

7/20。21_21 DESIGN SIGHTで『「祈りの痕跡。」展』。文字と文字以前のプリミティブな表現行為によって遺された人間の思考の痕に着目した展覧会。ディレクションはアートディレクターで地球文字探検家の浅葉克己氏。展示作品は神前弘氏の封筒の連作、大嶺實清氏の作陶の連作、浅葉氏による世界の文字の紹介やご自身の10年にわたる制作日誌など。それぞれコーナーごとに十分な余白を設けてボリュームたっぷりに展示されており、この場所でこれまでに見た企画展の中では抜群のまとまりと見応えを感じさせる内容だった。会場デザインは内田繁氏、照明デザインは藤本晴美氏が手掛けている。会期中にもう一度見に行きたい。

7/24。西村画廊で『町田久美 Snow Day』。全て売り切れの作品価格表を見て「バブルの一種だな」と思った。マンガやアニメのひとコマを思わせる構図に伝統的な童子のキャラクターをミックスし、現代的日本画のテクニックで描く手法はネオポップ以降のトレンドに正しく収まっているが、それでも(あるいは、それゆえに、か)2004年の『日本画二人展』で町田氏の作品を初めて目にしたときほどの妖しい輝きは感じられなかった。手跡に技量の不足を残した画面は、縮小コピーされることでようやく力を得る。500円の展覧会カタログは買い得だ。

7/25。スパイラルマーケットで『Taichi Glass Art』伊藤太一氏によるヴェネチアングラスの手法で制作された吹きガラスの器の展示。造形は微妙にいびつでサイズもまちまちだが、色ガラスの描く極細のラインや編目(その間に小さな気泡がひとつずつ配置されていたりする)は手作りであることがほとんど信じ難いほどに緻密。「これってCGですか?」と訊きたくなるような超絶技巧に思わず見附正康氏の作陶を連想した。

2008年08月27日 07:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 茂山狂言と伊東四朗一座とポニョ

4/27。国立能楽堂で『春狂言2008東京公演』。茂山童司氏の解説に続いて、大蔵流狂言『鶏聟』(にわとりむこ)。出鱈目な作法を吹き込まれた聟(茂山正邦氏)と、彼に恥をかかせぬよう受け応える舅(茂山千五郎氏)。滑稽さの中に心温まるような優しさを感じさせる。狂言ならではのシンプルでなんとも御目出度い演目。休憩を挟んで大蔵流狂言『縄綯』(なわない)。へそを曲げた太郎冠者(茂山千之丞氏)のチャーミングなこと。上下(かみしも)を振りながらの独り語りは落語のよう。最後は新作狂言『がたろう』(小佐田定雄作/茂山千之丞演出)。被り物キャラの競演が楽しい。

茂山千五郎家

6/3。本多劇場で『伊東四朗一座 - 帰ってきた座長奮闘公演 - 喜劇・俺たちに品格はない』。船場吉兆パロディの前説に続いて、戸田恵子氏唄うアイドル歌謡曲(徐々にマイナーに変調してド演歌になってしまう)で賑々しく幕開け。渡辺正行リーダーのボケとラサール石井氏のツッコミ(嗚呼ここに小宮孝泰氏が居れば。。。)を懐かしんだり、伊東四朗座長の突発的なギャグに面食らったりしている間に、三宅裕司氏がゆるゆると堅実にストーリーを牽引する。中盤、春風亭昇太師匠が登場して狂犬のようなテンションで舞台をかき回すと、一気に不条理な展開へ突入。ナンセンス極まりない戦場コントは伊東氏の独壇場。まさに絶品。途中リーダーのベルトが切れたり、アンパンマンが登場したりしつつ、勢いを維持したまま座長の演説で終演。胸の透くような極めつけの軽演劇。こりゃ癖になるなあ。

7/20。TOHOシネマズ錦糸町で『崖の上のポニョ』。宮崎アニメ史上最狂の暴走するヒロイン。消え入りそうな弱さと清々しいまでの男気を併せ持つ5歳児。彼らの出会いから生じる異常現象や災厄を、他の登場人物たちは戸惑うこと無く穏やかに受け入れ、物語を大団円へと真っ直ぐに導く。スクリーン狭しと蠢き、躍動する形象の全てがこぼれんばかりの寓意と象徴性を孕み、呆気にとられる観客席へと容赦なく打ち寄せ、汚れた常識を破壊し、押し流す。途中これほど何度となく大笑いし、不意に涙腺の緩む思いを繰り返した映画は久方ぶりだ。『千と千尋の神隠し』に比肩する傑作にして野蛮な魅力に満ちた実験作。おそらくこういう映画は何年か後でないと正当な評価を受けることは無いのだろう。かつて多くの宮崎作品がそうであったように。DVD購入決定。

2008年07月24日 03:00 | trackbacks (0) | comments (2)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年6月

6/6。東京国立博物館で『国宝薬師寺展』。噂通りのものすごい観客数ではあったものの、平成館での企画展には珍しくスペースをゆったりと確保した贅沢な展示構成のおかげで、割合しっかりと鑑賞することができた。スロープを設えた順路から『日光菩薩立像』と『月光菩薩立像』(7-8世紀)の様々な表情を拝む。視線を計算しての絶妙なアンバランスさ。最も心惹かれたのは『聖観音菩薩立像』(7-8世紀)。サイズ的には『日光・月光菩薩立像』より随分と小振りながら(それでも身長190cmくらいある)、真っ直ぐに正面を見据える左右対称の洗練された造形、緻密な衣装の表現がその姿を屹然として見せる。

6/8。アクシスギャラリーで『チャールズ・イームズ写真展 100 images x 100 words』。チャールズ・イームズ撮影の写真の裏側に、デザインにまつわる彼の発言がひとつずつ記され、そのパネルがワイヤー支持で宙空にある。パネルは50枚ずつ2列に構成され、観客は各列の周りを歩きながらその写真と言葉を「鑑賞」する。直球かつ極めてメッセージ性の強い会場デザインとグラフィックデザインは廣村正彰氏によるもの。唯一メモしたのはこの言葉「テーブルに食器を並べるたびに、私は何かをデザインしている」。

6/12。上野の森美術館で『井上雄彦 最後のマンガ展』。井上氏の作品は一切読んだことがない。それでもこの展覧会のインパクトはあまりに強烈だった。

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冒頭、ケント紙にペン描きのマンガ原稿からして恐るべき画力に驚愕。通常の美術館順路を逆行するかたちでストーリーが展開し、途中から全てのコマが墨描きとなり、その大きさや筆致は展示空間と呼応しながら変化する。緩急自在にして独創的。伸びやかな水墨画の技量たるや実に凄まじい。美術館は完膚なきまでに一連のマンガへと変換されていた。この膨大な作品量が、ほとんど会期前の3、4週間に制作されたものであるとはにわかに信じ難い。おそらくこのままのかたちでは巡回不可能な一期一会のマンガの「内部」でゆっくりと歩を進めながら、北斎が存命なら嫉妬に狂うだろうな、と思った。

6月某日。サントリー美術館で『KAZARI 日本美の情熱』。最初に展示された深鉢形土器(縄文中期)のグラフィカルなデザインにいきなり釘付けに。並びでおなじみの火焔型土器を見ると、その印象は今までとは丸きり別物。呪術的と言うよりも、むしろ整然として装飾的。鎌倉期の超絶金工に続いて『浄瑠璃物語絵巻』(伝岩佐又兵衛筆/1600年代)と念願の対面。室内装飾の描写の緻密さは想像を上回るもの。鍋島大皿の洗練を堪能後、平成ライダーも逃げ出しそうな江戸初期の兜、平田一式飾り辺りからいよいよヤンキー的センスが全開。最後の『ちょうちょう踊り図屏風』(小沢華嶽筆/1800年代)では被り物集団の奇態に思わず腰が砕けた。

2008年07月13日 20:00 | trackbacks (0) | comments (2)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年5月

5月某日。メゾンエルメス8階フォーラムで『サラ・ジー展』。ガラスブロックの外壁に囲われた明るいウッドフローリングのフロアに、近所の量販店やコンビニで買ってきたような雑貨、食品パッケージなどが大量にぶちまけられていた。その様子は一見雑然としているが、観る者はほどなく個々のオブジェクトの配置に一連の「物語」を思わせる緻密な流れが秘められていることを了解する。フロア中央のエレベーターから晴海通り側の丸柱を取り巻くタワー状の集積へ。エレベーター裏側のスペースから階段を上へ。歩調はゆっくりと、その流れに沿って自然に進んでゆく。所々、設備メンテナンス用の床パネルが剥がされた部分があり、消火栓や分電盤室のドアは半開きになっている。オブジェクトはスキ間に侵入し、建物と半ば一体化しつつあるように感じられる。大規模でありながら儚く繊細で、ゴミ同然でありながら圧倒的に美しい。

5月某日。サントリー美術館で『ガレとジャポニズム』。アール・ヌーヴォーの代表的ガラス工芸家、エミール・ガレの作歴を通して、当時のヨーロッパの美術シーンへの日本美術の影響がいかに大きかったかを体感することのできる内容。単純なコピーからスタートし、次第に精神性を増しつつ独自の世界観を確立してゆく過程が興味深い。最後の最後に展示されていた脚付杯『蜻蛉』(1903-4/最晩年のガレが製作し、限られた近親者だけが譲り受けていたという希少な作品。世界初公開)の深遠な表情に心打たれた。なるほど、これがガレの魅力か。この歳になってようやく理解できたかも。

5/10。水戸芸術館で『宮島達男 Art in You』。空間を贅沢に用いたシンプルな展示手法のおかげで、建物のもつ特徴的なプランニングが思いのほか際立っていた。動線を単純にも複雑にも設定し得るホワイトキューブの連なりは、まさに磯崎氏ならでは。展示作品の見所は新作の立体作品『HOTO』(2007-8)に尽きる。鏡面仕上げの金属による巨大なタワー状の塊。表面に取り付けられた無数のLEDがバラバラに明滅とカウントダウンを繰り返す。それは猥雑なエネルギーを、強力に、それでいて至って静謐に、あたかも堂内の御神体のように発散し続ける。

5/23。ギャラリー間で『杉本貴志展 水の茶室・鉄の茶室』。入場するとまず現れたのが『鉄の茶室』(1993)。パターン状に部材をくり抜いた余り鉄板を継ぎ接ぎした間仕切りは、重厚さと軽さを兼ね備える(写真/外観内部1内部2)。

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展示室と中庭との間には『古梁の待受ベンチ』が横たわる。中庭には一抱えを超える大振りの『鉄の花器』。こちらも廃鉄を転用したもの。

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中庭から上階へ。遮光された展示室内へ入ると『水の茶室』が。天地に張り渡された無数のワイヤーに沿って水滴がゆっくりと連続的に降下してゆく。ライトアップされた夥しい水滴の群れが間仕切りとなり、動線を示す(写真/123)。

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どちらの茶室もいわゆる「茶室」としての完結性を目指すものではない。特に天井を持たないことは、シースルーの間仕切り以上に決定的な要素であるように思う。破格に開放的な空間性に対し、簡易な路地からはじまる動線の設定は、茶事を行う上で至って真っ当なもの。そこに在るのは「素材」そのものの豪放にして艶やかな佇まいであり、亭主と客との間に成り立つ「作法」そのものであって、おそらく「空間」ではない。当日『水の茶室』で実際に催された茶会を内外で眺めながら、杉本氏のインテリアデザインに共通する劇場性について思いを巡らせた。

2008年07月11日 05:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年2月

2/3。リトルモア地下で『DECOTORA 田附勝写真展』。小さなスペースにデコトラとそのドライバーたちの写真がぎっしりと並べられていた。それらは単純な生々しさをフレームの外に捨て置き、造形と色彩の完璧なる構成として新たなダイナミズムを獲得し、視覚を鷲掴みにする。田附(たつき)氏と被写体との距離感が絶妙だ。写真集、買わなきゃ。作品点数をもっと絞り込んでサイズの大きなプリントを主体にした方が、展示としてはより成功したかもしれない。

2/7。みつばちトート8studioで『naho ogawa / my life as a (petit) jetsetter #3』。バッグ屋さんの店先に、ナホさんの手描きイラストを切り抜いたボードが天井から無数にぶら下がった様は実に楽しく、キュートで、壮観。イラストの題材はバンコク、台北、ニューヨークの旅のワンシーン。首が疲れるまで眺める頃には、なんだかどこか遠くへ行きたい気分になっていた。
六本木に移動してギャラリー・ル・ベインで『深沢直人「木の椅子とテーブル展」』。新作椅子は一見シンプル極まりないフォルムが事も無げに身体にフィットし、違和感が無い。違和感が無いどころか、あまりの手触りの良さにうっとりするくらい。新作テーブルとの相性も完璧。これはぜひセットで欲しい、と思ったものの、そんなお金は無いし、だいいち置き場所が無い。マルニ木工の定番家具「地中海シリーズ」と「ベルサイユシリーズ」をリファインした椅子のシリーズは、深沢氏の志向する造形を間接的ながらかえって明快に示すものとして興味深い。本来のキャラクターをかろうじて留めるところまでディテールを取り除かれた猫足の椅子は、まるでその装飾性のみで存在するかのような軽やかさを感じさせる。

2/10。戸栗美術館で『鍋島 - 至宝の磁器・創出された美 - 』。17世紀半ばから18世紀半ばにかけて隆盛した鍋島の名品を一気に、かつ大量に見ることができた。何よりグラフィックデザインとしての格調の高さと洗練性に思わずため息が漏れる。精緻な絵付の技術は全て手描きであることがにわかには信じ難いほどだ。見応えがあり過ぎてぐったり。でもくたびれた分以上の収穫があった。
その後、神楽坂へ移動してラ・ロンダジルで『ハウスの革モノと金モノ』ハウスと言うブランドで先ず頭に浮かぶのは当然靴。その次に多分バッグ。しかしここで私たちの目に留まったのは革と真鍮のパーツを組み合わせたちいさなオブジェの数々だった。折り紙を思わせる素朴さと、素材の持つ確かな存在感。手のひらに乗るくらいのサイズに増満さんの造形センスがしっかりと込められている。犬のオブジェを一匹飼うことに。

2/14。ギャラリー現で『倉重光則展』。倉重氏は1960年代末頃から活動するライト・アートの第一人者。蛍光灯やネオンを用いたミニマルなインスタレーションで知られる。ここで見ることができたのは、ちいさなギャラリーの長方形の壁3面を縁取るようにして設置された赤、青、黄のネオン作品と、2点のドローイング。ネオンの縁取りはそれぞれ一部が欠落しており、その不在が見る者の意識を作品をとりまく空間そのものへと誘導する。カッコいい。

2/22。ギャラリー・エフで『トーマス・ボーレ「ちび陶」』。詳細はこちらの記事で。

2/28。SCAI THE BATHHOUSEで『横尾忠則の壺』。アーティストに転身してからの横尾氏の作品は全くのノーチェックで、申し訳ないことに見もしないうちに勝手に醒めていた、と言うのが正直なところ。初めて実作の前に佇んで、その巨大な画面から放たれる形容不可能な禍々しい魅力に圧倒された。絵画とコラージュをシームレスに混在させる手法は極めて巧みで、洗練されたものだ。物語を予感させる象徴的でミステリアスなモチーフの狭間に、群衆が細かく描かれてるな、と思って近づくと、その顔は全て白黒写真の切り抜き。背筋に悪寒が走った。

2008年03月16日 05:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2008年1月

1/14。サントリー美術館で『和モード 日本女性、華やぎの装い』、江戸東京博物館で『北斎 - ヨーロッパを魅了した江戸の絵師 - 』を見た。

期待をはるかに上回る見応えがあったのが『和モード 日本女性、華やぎの装い』。会場は6つの章に分かれて構成されていた。
1章と2章は平安から江戸時代にかけての和装の変遷を絵画や実際の衣装などで紹介するもの。和装の成立した平安時代と言えば十二単(じゅうにひとえ)だが、要するにこの頃は女性も男性も袴(はかま)履きの上に重ね着だった。平安末期に小袖(こそで)が登場し、室町時代に入るとそれが表着(うわぎ)となることでいわゆるキモノの原型が出来上がる。江戸時代には連続パターン一辺倒だったキモノの柄がぐんとグラフィカルな表現となり、いよいよファッション性が高まった。
興味深いことに、絵画を見る限り江戸前期までは誰一人として正座をせず、女性も男性もあぐらをかいたり片膝を立てたりと実に自由でリラックスした姿勢をとっている。キモノのかたちもまたゆったりしたもので、お端折の習慣は無く、帯はかなり細い。一体どのような経緯でキモノが現在のように窮屈なスタイルとなり、和室では正座が決まり事のようになってしまったのか。残念ながら展覧会ではそこまでのことは分からなかった。
3章は化粧や喫煙具、4章は髪型と髪飾りの変遷の紹介。特に髪飾りの展示は膨大で、その細工の精緻さといい実に圧巻だった。名も無き職人と江戸の大通たちのこうした小物のデザインに対する熱意には鬼気迫るものがあり、心底恐れ入る。5章は明治以降の女性のファッションの広告ポスターによる紹介され、6章はクリスマスと正月に因んだコレクション展示となっていた。

江戸東京博物館の特別展のボリュームは毎度大変なものだ。『北斎 - ヨーロッパを魅了した江戸の絵師 - 』もまたしかり。とりあえずオランダ商館からの発注により北斎とその工房が描いた肉筆画(そのほとんどがオランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館からの一時的な里帰り)を重点的に見よう、と気構えたものの、やはり途中で目眩を覚えるような展覧会だった。
肉筆画の持つ迫力は実物ならではの醍醐味。緻密に描かれた各モチーフの輪郭と、ほとんどエアブラシを使ったようにしか見えない彩色の見事なグラデーション。生命感に溢れ、奥行きのある作品群に思わず息を呑んだ。
中盤の浮世絵のエリアは後ろ髪を引かれつつもどうにか流して見終え、国内所蔵の肉筆画のエリアに差し掛かってまた足が止まった。終盤の絵本・絵手本のエリアまでをじっくりと見て、なんとか閉館間際に終了。時には生々しく細密に、時には戯画化して軽快に、と自在にその表現を変えながら、対象物の持つダイナミズムとその本質を一枚の画にしてしまう北斎の洞察力と描写力はあまりに凄まじい。
展覧会の最後に、北斎が誰かに宛てた手紙が一枚展示されていた。そこには83才の北斎の自画像が添えられている。ユーモラスながら迷いの無い筆遣いは、全ての作品を見終えてなお一際印象に残るものだった。これまたオランダ国立民族学博物館の所蔵品なのがやけに情けない。お爺ちゃん、大事にしてもらってね。

2008年02月07日 11:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 東京国立博物館で見たもの・2007年1月

1/2。東京国立博物館で長谷川等伯『松林図屏風』のついでに見たものをいくつか。

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もとは京都の浄瑠璃寺に所蔵されていたと言われる『十二神将立像』のうち子神。鎌倉時代、運慶派の職人の作とされる。高さは70cmくらいと小さめだが、ユーモラスなポーズといい表情といい、実に生き生きとした造形に驚かされる。頭上にちょこんと乗っかった鼠が可愛い。これが7、800年も前の作品とは。フィギュアに懸ける日本人の情熱と感性はこの頃から変わってないんだな。

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江戸後期の古伊万里『染付鼠に大根図菊形皿』。大胆な構図。ぼかしの使い方もいい。

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江戸後期の袱紗『紺地鼠に大根模様』。金糸をふんだんに使ったなんとも贅沢で御目出度い図。

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教科書でお馴染み、青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の土偶。イヌイットと日本人の関連を思わせるいわゆる遮光器土偶。縄文時代。

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これまたお馴染み、縄文時代の『火焔土器』。新潟県長岡市馬高で出土したと言われるもの。実際に見ると、なんとも凄い造形だ。直径は50cm弱だが、サイズ以上の迫力を発散している。

2008年02月04日 10:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 長谷川等伯・松林図屏風

1/2。東京国立博物館は平常展無料観覧日。国宝室に長谷川等伯(1539-1610)の『松林図屏風』(しょうりんずびょうぶ)を見に行った。6曲1双の紙本墨画。

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禁止マークの表示されたものを除き、ここでは写真撮影がほぼおとがめなし(当然ながら、フラッシュや三脚の使用など明らかに人迷惑な行為は不可)。『松林図屏風』も撮影OKだった。実際にはこれだけの大作(高さ1568mm、伸ばした状態での幅7120mm)の全景を人が居ない状態で撮るのはまず無理とは言え、なんとも太っ腹で嬉しい限り。

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遠目には霧に消え入る静謐な松林が極めて写実的に表現されているように見えるが、近づくとその筆遣いは意外なほど激しい。生々しく描かれているのは「松」ではなく「大気」なのだ。

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上は斜め右からの写真。

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上は斜め左からの写真。できれば広間にぽんと置いた状態で、自然光の変化とともに、もっと様々な角度から眺めてみたいところ。優れた屏風絵はそれ自体平面であると同時に、その可動性ゆえ空間を劇的に変貌させることの可能な道具でもある点が面白い。

限りなく疎な物性で空間を意味付けること。私たちにも等伯のような表現ができるだろうか。

2008年01月28日 05:00 | trackbacks (0) | comments (2)

身体と空間の芸術 : 2007年の勅使川原三郎と維新派

10/7。新国立劇場で勅使川原三郎『消息 - Substance』。小劇場に入ったのはこの日が初めて。仮設的で濃密な空間。ステージとの距離が近い。しかし前方にはプロセニアムの上枠のような状態で吊られた造作があり、前面にずらりと並んだ蛍光灯が目を眩ませる。やがて光の緞帳が上昇し、暗転。
ステージ上がぼんやり明るくなると、左右に斜めに傾いた金属パイプが風にしなう竹林のように群れをなしており、ダンサーたちはその間から現れては消える。特に静と動を激しく繰り返す佐東利穂子氏の存在は凄まじい。時折、床面にライティングの描く円環が空間に狭い領域を生み出し、ダンスはその内外で展開する。ステージ上部は蚊帳のようなもので覆われており、その下面には床より若干小さなサイズの円環が、暗い中心を持つ月のようにぽっかりと浮かぶ。最奥の壁面に沿ってぶら下がった数個の電球もまたダンサーたちにそれぞれ小さな領域を提供する。
勅使川原氏の作品としては要素が多く、構成的にやや求心力を欠くようにも思われたが、もしかすると劇場の規模が変わればそれだけで随分と印象が変わるかもしれない。進化の予感のある作品だ。

11/4。彩の国さいたま芸術劇場で維新派『nostalgia』。20世紀初頭の南米を舞台に、騒乱と大戦の影の中で迫害を受ける移民カップルの出会いと、それぞれの旅を描く。
舞台の大仕掛け。断片的な台詞と抽象化された動作。形式的には変わらぬ維新派流のスペクタクルながら、全体を通しての印象はより生々しい。装置類にはいつもほどの圧倒的なボリュームは無く、替わりに巨大な書き割りがステージをレイヤーに分け、ダイナミックに入れ替わる。また、マスゲーム的な演出はいつも以上に洗練され、迫力のあるものとなっていた。史実を参照し、ほぼ時系列で組み立てられたストーリーは、維新派の作品としては異例に分かりやすい。
エンターテイメントとしてのクオリティが一気に高められ、猥雑さや手作り感が若干影を潜めてしまったことに寂しい心持ちも無くはない。それでも維新派が明確に新しい段階へと踏み出したことを祝福したいと思う。これが三部作の最初とのこと。引き続き登場するであろう着ぐるみ人形の<彼>、キャラクターたちの行く末など、今後の謎解きと展開が気にかかる。

12/16。再び新国立劇場・小劇場。勅使川原三郎『ミロク MIROKU』。勅使川原氏のソロ作品。三方をフラットな壁に囲まれたステージ上には装置らしいものが一切無い。勅使川原氏が静かに現れ、横長四角形を照射するよう制御されたライティングが壁面をグリッドパターン状に発光させ始める。壁は全面を蛍光ブルーに塗装されている。空間を支配する青い光の明滅と滑らかな動きの中で、蛍光オレンジのTシャツを着けた勅使川原氏が、残像とともにダンスする。
ステージ中央に四角いスポットライトが落とされると、ダンスはその領域を避けながら、あるいはその中に居る見えないダンサーとデュエットするようにして展開する。後半、裸電球が上部からぶら下がり、それを手にした勅使川原氏はソケットに付いたスイッチを入切しながら目まぐるしく動く。点光源から放たれる光によって壁面に拡大される勅使川原氏の影が、時折人間ではない「何か」を想起させる。
やがて青い光が上昇パターンを描きはじめ、静かにエンディングが訪れた。その様子を詳述することは避けておこう。ステージから客席に向かって真っ直ぐに吹いた一陣の風の肌触りを、おそらく私たちは決して忘れない。なんというシンプルで、ストレートで、心豊かな演出か。

SABURO TESHIGAWARA / KARAS
維新派

DANCE CUBE/アプローズ・ダンス!EAST
勅使川原三郎が新作『消息 - Substance』を上演(2007年11月号)
勅使川原三郎のソロ『ミロク MIROKU』(2008年1月号)
*リンク先中段以下に写真入記事

2008年01月22日 04:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2007年11月・2

11/24。自由が丘『alternative』でランチの後、六本木へ移動。オオタファインアーツで『見附正康展』を見た。見附氏は1975年生まれの九谷焼の作家。現在「赤絵細描」の第一人者である福島武山氏(その作品と動画は必見)に師事し、石川県で活動している。「赤絵細描」は中国明代の赤絵金襴手を手本に金沢で発達した色絵のテクニック。
展示されていたのは大皿4点、蓋物2点、花瓶1点。シンプルなフォルムの器に描かれたパターンの細密さはあまりに凄まじく、じっと目を凝らさないとフォーカスが合わないほど。描かれているのは瓔珞(ようらく/古代インドの装身具をパターン化したもの)や七宝(しっぽう/円を重ねて繋いでいく仏教由来の吉祥文)と言った一般的な古文様だが、それらが同心円上に綺麗に配置された様は和風と言うよりむしろエキゾチック。異様なまでの細密さが、ある種呪術的な雰囲気を醸し出す。これまでに体験したことの無い感覚に、思わず息を呑んだ。

同日、銀座へ移動してMEGUMI OGITA GALLERYで『中村ケンゴ ”スピーチバルーン・イン・ザ・ビーナスと21世紀のダンス”』を見た。作品についての詳しい解説はこちら。マットな質感の中にやわらかな奥行きと光沢を秘めた画面(「近代の日本画」の技法で描かれている)が、ほぼモノトーンに近い配色によって力強く引き立つ。特に『21世紀のダンス』のシリーズは、マティスの絵画をサンプリング・再構成した結果、自然物モチーフのパターン(例えばトード・ボーンチェなど)を思わせるファッショナブルさと、暗くシニカルな批評性を同時に獲得しているのが興味深い。
シリーズ中にはダンサーが黒で描かれたものと、白で描かれたものの二通りがある。個人的に、そのミステリアスさに心惹かれるのはやはり「黒」の方だが、明るさを装った「白」の方がコンセプト的にはより捩れている。どちらも魅力的だ。

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11/30。打合せからの帰りに青山のCLEAR GALLERYで『倉俣史朗 Liberated Zone』を見た。倉俣のデザインした家具・プロダクト作品のうち、アクリルとガラスを主素材とする代表作が8点余り展示されている。私たちにはどの作品とも10年以上ぶりの再会だ。以前ならその存在感に圧倒されるばかりで、まったく目に入らなかったアクリルの継目や金物の溶接箇所を、今では冷静に見ることができる。当時持てる知恵と技術の粋を凝らした倉俣と制作者の共同を物語るそうしたディテールの囁き声に、私たちはそっと耳を傾けた。
展示作品中、その洗練性において際立っていたのが『Glass Chair』(硝子の椅子/1976/三保谷硝子製作)と『Luminous Chair』(光の椅子/1969/イシマル製作)だった。とりわけ『Glass Chair』のもつ非現実性は、現物を目の当たりにしない限り、まず実感することはできないものだ。倉俣の作品について語られる場合、そこに込められた夢とポエジーに主眼が置かれることが多い。しかし椅子や家具という概念に対するパロディとしてあまりに完璧な『Glass Chair』のデザインは、甘いロマンチシズムの彼岸にあると言っていい。『Glass Chair』のとなりに佇む『Miss Blanche』(ミス・ブランチ/1988/イシマル製作)は、なんだか少々申しわけなさそうで微笑ましかった。
『Miss Blanche』を除き、全ての作品はギャラリーで購入することができる。家具類にはおおよそ数十万円から数百万円の値が付いていた。今はとてもじゃないが、『Glass Chair』と『Luminous Chair』はいつか何とかして手に入れたいものだ。まずはどこにどうやって置くかが問題だな。

工芸とデザインと現代美術。もはやぼんやりと霞んでしまったその境界を、行き歩いたような3つの展覧会だった。

2007年12月11日 06:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2007年11月・1

11/3。『Noi Shigemasa Exhibition ~The glass~』を見にリスン青山へ。心の師匠・野井成正さんデザインの新作インセンスホルダー(香立)の展示。通常はこの店の主要な商品展示台として使われているガラスのカウンターの上の半分近くが、この日はガラスのインセンスホルダーで埋まっていた。スタッフの方いわく、それでもイベントが始まった頃よりは少なくなったとのこと。すでにけっこう売れてしまったのだ。

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買ったのは新作インセンスホルダーの大中小三種類のうち中(直径95mmくらい)と小(直径65mmくらい)。ガラスの台に真鍮製のリングが嵌り、スティック香が立てられるようになっている。ぽってりとした手作りガラスのフォルムは今にもはじけそうな水滴を思わせる。あるいは桜あんパンみたいでもある。やわらかで無駄の無い造形、涼しげな質感、ずっしりとした重み。一見すると意外だが、じっくりと味わえばたしかに、これもまた紛れも無い野井デザインだ。

11/16。『鳥獣戯画がやってきた! - 国宝「鳥獣人物戯画絵巻」の全貌』を見にサントリー美術館へ。甲乙丙丁の4巻(鳥獣戯画として一般に馴染み深いのは甲巻)全てに加え、作画・由来的に関連性のある種々の作品を集めて展示する内容。昔の教科書だと鳥獣戯画は鳥羽僧正の作とあったが、実物を見ると甲乙巻、丙巻、丁巻で作者が異なることは素人目にも明らかで、クオリティ的にも雲泥の開きがある。特に甲巻は後年になってかなりの部分が継ぎ接ぎされており、もとはその一部だったものが切り取られて別の掛軸になっていたりもする。断簡と呼ばれるそうした部分や写し、模本などを手がかりに甲巻の原型について考察する展示は、難解ではあるがその分じっくりと楽しめるものとなっている。
それにしても、玉石含めて模造品には事欠かない甲巻だが、オリジナルの迫力は本当に凄い。迷い無く、生命感溢れる筆致で描かれた線画のキャラクターたちにすっかり心を奪われてしまった。とにかく凶悪なまでに可愛らしく、繊細で、完成度が高いのだ。現在は展示替えで各巻の後半部分を見ることができるようになっている模様。もう一度見に行かなくちゃ。

それから『佐藤卓ディレクション「water」』を見に21_21 DESIGN SIGHTへ。水にまつわる様々なインスタレーション、立体、平面作品が全部で38種。食材の製造に要する水の量を示す『見えない水の発券機』(竹村真一佐藤卓)、超撥水コーティングのステージに水滴が踊る『鹿威し』(原研哉)などが印象に残った。それぞれにスケールを置き換えた『猫の傘』と『ねずみの水滴』(佐藤卓)もチャーミングなインスタレーション。シンプルだが、リアリティのある作り込みにはっとさせられる。

ミッドタウンでもうひとつ。『とらや』に立ち寄ったところ、店内のギャラリーで『寿ぎのかたち展』が開催中。伝統的な折形、水引とその製作過程にまつわる展示に加え、オリジナル商品も見ることができた。田中七郎商店による水引の造形は実に優美なもの。伝統的折形の雛形に見られる工夫と、そのバリエーションの豊富さには驚いた。折形デザイン研究所、田中七郎商店、とらやの協同によるぽち袋を後で購入しようと思ったが、上のふたつの展覧会を見ている間にすっかり忘れていた。こちらも要再訪。

さらに同日、自由が丘に移動してバスで深沢不動前へ。天童木工PLYで『柳宗理 家具展 2007』を見た。現在新品として購入可能な柳デザインの家具を一覧することのできる内容。特にあまり出会う機会の無いダイニングテーブルを、スタッフの方からご説明をいただきながらじっくり見ることができたのは有り難かった。強度と機能の両立のために考え抜かれた天板裏の構造と、面取りの手法に思わず唸る。また、今年初めに東京都近代美術館の展覧会『柳宗理 生活のなかのデザイン』で見た『デスク』(1997)が新作の『Yanagi Desk』(白崎木工製)として販売されていた。鋭角的でソリッドなフォルムと重厚な無垢材の質感は柳デザインの家具には珍しい。こちらも興味深く拝見した。

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Tendo Classicsのカタログと『亀車』(1965/全長12cmほど/別アングルの写真)を購入。宮城県鳴子の木地こけしの老舗『高亀』のために柳氏がデザインしたもの。箱が無かったのは残念だが、入手できたのは幸運。ろくろ引きの手法を生かした見事な造形。キモ可愛い。

2007年12月05日 03:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 展覧会行脚のメモ 2007年10月

10/16。午後過ぎから出光美術館の『没後170年記念 仙厓・センガイ・SENGAI 禅画にあそぶ』へ。仙厓(1750-1837)は日本最初の禅寺・博多の聖福寺の住職として1800年前後の再興に務めた禅僧。宗教者としての業績だけでなく書画においても優れた人物だったが、ある時期(1810年前後と言われる)を境に細密画を描かなくなり、以後「うまへた」な水墨作品を描き続けた。その過激なまでの脱力具合、禅を極めた境地から発せられる破壊的な賛文は、簡単に「ユーモラス」などと言えるような代物ではない。『一円相画賛』などはその最たるものだろう(「これくふて茶のめ」って。。。)。展覧会では出光美術館の有する日本最大のコレクションを通して仙厓の作品と生涯が網羅的に紹介されており、そのボリュームたるや大変なものだった。図録は『指月布袋画賛』や『○△□』が見開きでまっぷたつに掲載されていたのが残念。

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神保町へ移動して南洋堂書店の『菊地宏展 - 光の到達するところ』へ。菊地宏氏の手がけたリノベーション(2007年8月完成)によって、建物(1980年築/土岐新設計)は通りに対してずいぶんと開放的になり、客動線は整理されていた。4Fのギャラリースペース『N+』での展示は合板やコンクリートを用いた模型を中心とする内容。アーシーな質感が印象的。小さなモニターでループしていた各作品の紹介映像には工事中の風景が多く含まれていた。カオティックな現場に少ない手数で端正な表情が与えられてゆく様は興味深い。中でも『LUZ STORE』は現存しているうちにぜひ見ておきたかった作品。『毎週住宅を作る会』を見ていた頃はこんなに力強い作風の建築家になる人だとは予想していなかった。月日は人を変えるのだ。翻って見ると、ウチは当時からあまり変化も成長もしていないような。いかんなあ。

竹橋方面へ移動してKANDADAの『伊藤敦個展「"777"」』へ。パチンコにまつわる様々な社会的、あるいは個人的な事情を、批判するでも肯定するでもなく、端的に示す作品の数々。インスタレーションや立体、映像によるその乾き切った表現は時に痛々しく、時に生々しい。廃棄されたパチンコ台のパーツをそのまま簡潔に再構成したシリーズ『"777" - Flower - 』では、その過剰な造形とイルミネーションに息を呑んだ。脇のプラズマモニターから流れる地方のパチンコホールの映像へと目をやると、空間を覆いつくす凄まじいまでのアイコンの羅列に思わず目眩を覚える。パチンコホールは現代日本におけるウルトラバロックなのだ。彫刻作品『"777" - Home - 』はパチンコホールのちいさな模型。エントランスの脇にぽつんと置かれた姿は妙に懐かしく、郷愁に似た感覚を誘うものだった。

10/24。松屋のデザインコレクションで『alternative』のための資材調達をした際に、デザインギャラリーで開催中だった『PHランプと北欧のあかり』を見た。PHランプの開発過程とそのバリエーション展開を概観する内容は、個人的にはこれまでほとんどまとめて見たことのなかったもので、大変勉強になった。配布されていた資料に掲載されていたポール・ヘニングセンの言葉はなかなか辛辣で興味深い。以下引用。
「夜を昼に変えることなど不可能だ。わたしたちは24時間周期のリズムで生きており、人間は爽やかな昼の光から暖かみのある夕暮れへの移ろいに、ゆっくりと順応するようにできているのだ。家庭での人工照明は、言うなれば、黄昏どきの光の状態と調和すべきであり、それは、黄昏特有の暖かみのある色の光を使うことによって実現可能だ。夕刻、ほかの部屋にはまだ薄明かりが残っているような時間に、冷たい蛍光灯がリビングルームで煌々と光っていては不自然だ。そして、強烈な光は目をくらませ、物の色は正しく再現されず、自然な陰影は生まれない。」

さらに同フロアの画廊で開催されていた『寺本守 銀彩展』へ。まったくのノーチェックでふらりと訪れたが、これが素晴らしかった。線描の上絵付に銀箔・銀泥を施してから掻き落とし、低火度で焼きつける手法で作られた陶芸作品のシリーズ。深みのある表情とクールな佇まい。思わず衝動買いしそうになったが、なんとか思いとどまった。今度出会った時のために貯金しとこう。

2007年11月23日 20:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 国立能楽堂・納涼茂山狂言祭2007

8/18。国立能楽堂『納涼茂山狂言祭2007』の夜公演へ。ここで茂山狂言を見るのは昨年に続いて2度目。相変わらず国立能楽堂は気楽でいい。勝野は竺仙の絹紅梅、ヤギはTシャツにジーンズ、という他の能楽堂だと着物マダムの皆さんに白い目で見られそうな出で立ちだったが、ここでは余計な気遣いをしなくて済む。

建物は大江宏建築事務所1983年の作。外苑西通りと明治通りを繋ぐJRの線路脇の道を、その中ほどで少し住宅街の側に入ると柿葺(こけらぶき)を模した金属屋根が折り重なって表れる。

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ファサードや外構のデザインはまとまりに欠けるが、インテリアは見事なものだ。上の写真は終演後の舞台。光源をほとんど意識させない超フラットなライティングが異空間を浮かび上がらせる。

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上の写真はエントランスロビー。上部に木製ルーバーを設けた開口部のデザインが巨大な半蔀(はじとみ)を彷彿させる。

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上の写真はエントランスロビーからホワイエへと続くメイン通路。中庭(写真右)を半周するようにして横ルーバーの意匠が続く。

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ホワイエで天井は一段と高くなる。上部はぐるりと光壁。縦向きとなった木製ルーバーがそのスケール感を強調する。見所の外側にある通路(写真左)を含め、舞台以外のライティングには蛍光灯が上手く使われている。

最初の演目は京極夏彦作の『豆腐小僧』。千之丞氏演じる豆腐小僧の可愛らしさと、千五郎氏演じる大名の雷親父ぶりの対比が実に鮮やか。休憩をはさんでの『三人かたは』はナンセンスの極み。笑いのパワーが凄い。最後の『神鳴』(かみなり)は田楽の流れを汲む楽しくおめでたい演目。八百万の神の国に住む民衆の厚かましさとたくましさに思いを巡らせつつ、大いに笑わせていただいた。

2007年08月30日 01:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 鈴木真吾 / 須田悦弘 / アニアス・ワイルダー

7月に見た展覧会のうち現代美術系の3つについてのメモ。

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鈴木真吾個展「手のひらを太陽に」 2007/7/6-28 KANDADA
会場の『KANDADA』はコマンドNが運営するアートスペース。印刷会社・精興社の1Fを活用した白く天井の高い空間。6点あまりの立体作品とインスタレーションはどれもチェーンリング、パーラービーズ、マッチ棒、コインなど、無数の小さなパーツを丹念に組み上げることで大小のミニマルなボリュームを形成するもの。鈴木氏はこれらを個と社会の関わりのメタファーとして捉えている。どの作品にも純粋かつ単純であるが故の驚きがあり、美しい。中でも一円玉をミラーボールに仕立てた作品『きらきらぼし』は感動的だ。壁や床に投影された無数の円形の中に、縮小された一円玉の模様がうっすらと浮かび上がる様は、鈴木氏も全く予想していなかったものだと言う。『1000のバイオリン』は黒い折り鶴を25×40(=1000)のグリッド状に壁面へと配列し、参加者が折った千円札の折り鶴と交換してゆくプロジェクト。上の写真は勝野とヤギが交換してきた折り鶴。千円札と同じサイズの紙を折っているためこんなかたちに。鈴木氏のサイン入り。どうにかして額装したいと思っている。

須田悦弘展 2007/6/26-7/28 ギャラリー小柳
植物を象った木彫数点での新作展。ギャラリーは銀座の外れにあるビル8Fの割合に広いスペース。白い壁の所々に剥き出しのコンクリート柱が露出しており、須田氏ならではのハイパーリアルで繊細な造形による朝顔や菖蒲などの夏草が、その片隅から生えてきたような姿でさりげなく、点々と置かれていた。ひとつひとつの作品は見事だが、空間的な工夫を感じる展示ではなく、以前に見た資生堂ギャラリーでの展覧会に比べると全体の印象は弱い。価格表を見ると大きめの作品には400万円以上の値が付いており、全て売約済み。さすが。でも私たちにとっては入口エレベーター脇のカウンター下にひっそりと展示されていた雑草の木彫(非売品)が最も魅力的だった。

アニアス・ワイルダー展 7/7-31 INAXギャラリー2
イギリスのアーティスト、アニアス・ワイルダー氏によるインスタレーション展。6mの全長を持つ無数の木片を規則的に組み上げた八角柱の造形が、ギャラリーの両壁をつなぐかたちで宙に浮かぶ。信じ難いことにこの横倒しの積み木には釘や接着剤などは一切用いられておらず、両端からの圧力だけで支えられていた。軽量鉄骨にボード貼のような内装壁では強度が足りないため、両壁の一部はくり抜かれ、鉄筋コンクリートの躯体壁が露出した状態。力のかけ具合は造形と躯体壁の間に三角形の楔を打ち込むローテク極まりない手法で調整されていた。私たちが見に行った前日、東京では震度3の地震があったのだが、よく壊れなかったものだ。デザインや建築に携わる人間にはなんとも堪らない危うさ。それは数学的で、同時に呪術的でもある。

2007年08月09日 11:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 市川平「コンタクト・ドーム」

7/22。横須賀・カスヤの森現代美術館へ。市川平さんと西雅秋氏の展覧会『dialogue.3:形の方策』のオープニング。

市川さんの作品はメインの展示室をまるごと使った『ユニバーサル・システム』と題するインスタレーションだった。これは昨年JR仙台駅で開催された展覧会『待ち人の眼差し「駅 2006」Vol.1仙台』のために製作された作品の別バージョン。ブラックライトに照らされた蓄光のBB弾が傾斜したベルトコンベアで上方へと運ばれ、先端で透明樹脂板のレールへと落下。レールはもと来た場所へとBB弾を誘導し、一連の循環が繰り返される。重厚で単純極まりない機械のムーブメントを前にしばらく佇むと、しだいにBB弾と樹脂板のぶつかるパラパラという音が雨脚のように聞こえ、まるでマイナスイオンの立ちこめる中に居るような気分が訪れる。不思議な静謐。

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この日のもうひとつの目的は『コンタクト・ドーム・ツアー・プロジェクト』の進捗を拝見すること。2002年から数年に渡って市川さんが継続中のプロジェクト。美術館の裏の林に鉄板のドームが立ち上がりつつある。上の写真はドームへのアプローチとその外観。

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ドームの中に入って見上げると、気分は『未知との遭遇』。亜鉛メッキされた継ぎ接ぎの面と、無数に開けられた穴から漏れる光が美しい(アップの写真はこちら。右はドームの入口)。

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その空間には大人が何十人も入れる広さがある。“建造物”と言って差し支えの無いこの立体作品を、市川さんはほとんど一人でつくり続けている。製作開始から5年を経て、脚もとは苔むしつつあった。

『コンタクト・ドーム』はこの秋に完成予定とのこと。今から楽しみだ。

市川 平・西 雅秋「dialogue.3:形の方策」(カスヤの森現代美術館)

2007年08月01日 23:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 映画4本・カザフ-米-西-日

最近見た映画4本についての簡単な覚え書き。

ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習
スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー
ボルベール <帰郷>
殯の森

以下、若干ネタバレ気味かもしれないので読みたい方だけどうぞ。

2007年07月22日 03:00 | trackbacks (0) | comments (0)

落語初心者のメモ, 身体と空間の芸術 : 落語と歌舞伎と二人喜劇

先月から6/11までの間に見たイベントについての簡単な覚え書き。

5/7。東京国際フォーラムで 「特選落語名人会」。出演は春風亭小朝林家たい平立川談春の三師。
開口一番・三遊亭歌ぶとさんの『道具屋』に続いて、いきなり小朝師匠の登場(普通どう考えても出番はトリだ)。この会はちょっと特別かもしれない、と予感。で、これまたいきなりの『浜野矩随(はまののりゆき)』。実在した江戸の名工を主人公とする講談がベースの大ネタだが、ここは軽妙に聞かせる。流石。そう言えば小朝師匠の古典を聞いたのはこれが初めてだ。
仲入を挟んでたい平師匠。『明烏』とまたもや大きな演目。吉原を舞台に商家の坊ちゃんが活躍、と来ればそれはもう師匠の持つ品と色気が最高に際立つ。野球ネタやドラえもんネタを挟みつつ、爆笑の中に爽やかさな後味を残す。
と、すでにお腹いっぱいのところでトリは一番若い談春師匠。「ジャンケンで負けた」、「イジメだ」、とボヤきながらも衣装は羽織袴と気合い十分。演目は『妾馬』の上(八五郎出世)。母親のキャラクターに若干の弱さを感じたものの、八五郎のガラの悪さとダメっぷりがなんとも魅力的。ハマり役だ。一見浮世離れして見える城の住人たちが八五郎のセリフに思わず涙を流すところでは、私たちも号泣。幕が降りる瞬間、談春師匠が客席に向かって拍手をする姿が見えた。ああ、今日は凄い会を見たんだな、と確信。

5/13。よみうりホールで「桂文珍独演会」。文珍師匠の会は一年ぶりくらい。演目は『マニュアル時代』と題した小噺、『天神山』と『七段目』。
とりわけ印象的だったのはこの日初めて聞いた『天神山』。内容は至ってシンプルでナンセンスだが、師匠の上品な語り口と、切ない狐の歌でのサゲが深い余韻となって心に響く。芝居台詞とお囃子を絶妙に織り交ぜながらの『七段目』は何度聞いても最高に楽しい。

5/23。歌舞伎座で「團菊祭五月大歌舞伎」昼の部。演目は『泥棒と若殿』、『勧進帳』、『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』の二場(木更津海岸見染の場、源氏店の場)と『女伊達』。歌舞伎を見るのはこの歳にして初めてのこと。落語の簡素さや生々しさとは対極的な、仕掛けと約束事の巨大な塊。その細部に役者の個性が時折こぼれるようにして露になる様子が興味深かった。
名優揃いの豪華なプログラムの中でも、市川海老蔵氏のセクシーさと存在感は群を抜いていた。こりゃ多少の悪さはしょうがないな、と納得。

6/1。世田谷パブリックシアターで「びーめん生活スペシャル」。小松政夫イッセー尾形両氏の二人喜劇。
はっきり言って、小松の親分さんを生で見ることができるだけで涙が出るほど有り難いのだが、その内容は期待をはるかに上回る鮮烈さ。親分さんが尾形氏の作法に従って舞台の袖で観客の眼にさらされながらの衣装替えをすることにも驚いた。終止神経質そうな表情で下目使いのまま鬱々と狂気を発散する親分さんに対して、容赦なくツッコミを入れつつ(イッセー尾形のツッコミ!!)時たま意表をつく展開を持ち出して舞台を翻弄する尾形氏。ねじれた構図が強烈な可笑し味に満ちた空間を出現させる。そのシュールさは『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(1976-79)でさえ到達しなかった地点にあるのではないかと思われた。こ、これはぜひともまた見なくては。親分さん、どうぞお達者で。

6/11。イイノホールで「立川談春独演会」。ここは素晴らしく舞台の見やすいワンスロープのホール。しかも座席は中段の真ん中と絶好の位置。おかげで談春師匠の細かな表情をしっかりと見て取ることができた。
藤原・陣内カップルを『紺屋高尾』に例えたりしつつ、結婚にまつわる心理を毒舌に次ぐ毒舌で茶化して大いに笑わせた枕に続き始まったのは『厩火事』。上記の会では「もしかして女性を演じるのは苦手なのかな?」と思ったのだが、この日のおさきさんの江戸っ子の年増女ぶりは素晴らしかった。得意のマシンガントークが可笑し過ぎて涙。怠け癖があって口の悪い八五郎が思わぬ優しさを見せるところで盛り上がりは最高潮。いい話しになりかけて感涙したところでストンと落とす。この展開だと結局のところ八五郎の本心がどうなのかは謎のまま。粋だ。
仲入に続いて『らくだ』を火屋までたっぷりと。後半は駆け足となったが、丁目の半次の描写は実に凄まじく、それでいて魅力的だった。

2007年06月13日 10:00 | trackbacks (1) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 21_21 DESIGN SIGHT

東京ミッドタウンのつづきでもうひとつ。オフィス・商業棟北側のミッドタウンガーデンへ出ると、その最奥に見える低層の別棟が『21_21 DESIGN SIGHT』(何と読むのだろう?)。建築デザインは安藤忠雄建築研究所。この日はギャラリー1でウィリアム・フォーサイス氏のインスタレーション『Additive Inverse』とアレッシオ・シルヴェストリン氏によるパフォーマンスを、ギャラリー2でオープニング展『安藤忠雄 2006年の現場 悪戦苦闘』を見ることができた。

070416_midtown_designsight02.jpg

建物としてのボリュームの大半を地下に埋めたデザインミュージアムは、それ自体が最良の常設作品だ。立体的な回遊動線がコンパクトに収められ、その造形的な内部を鈍い自然光が照らす。実に簡潔で力強い空間。おそらく国内でも指折りの安藤建築だろう。展覧会では図面や模型、素材サンプルなどの展示物の大半が長テーブル(建設用足場で組まれたもの)上にずらりと並べられ、観覧者はその周囲をベルトコンベアよろしく一方通行の動線に従って流れてゆくよう構成されていた。これまた笑えるくらいにシンプル。

ウィリアム・フォーサイス氏のインスタレーションはギャラリー中央に置かれたプール状の造作内をスモークで充たし、その上部から映像を投影するもの。プールの上に蓋は無く、ほんのちょっとした空気の流れが映像にゆらぎをもたらす。急いで動くとスモークが溢れて消えてしまいそうだ。陽炎のように幻想的で儚げな存在感が印象的。
アレッシオ・シルヴェストリン氏のダンスパフォーマンスが行われたのはスモークのプールから少し離れた場所。観客との距離のあまりの近さに驚いた。ほとんど見えるか見えないかの細い糸で自ら動きを拘束しながらの表現は、インスタレーションと同様極めて繊細で美しいものだった。

さて、そんな充実した内容の『21_21 DESIGN SIGHT』だったが、残念ながらその周辺環境はまともにデザインされているとは言い難い。建物の写真を少し引いて撮ろうとすると、途端に絵にならなくなってしまう。

070416_midtown_designsight01.jpg

この植栽とか、もう少しなんとかならなかったのだろうか(建物の背後に見える針葉樹の並木は実のところ隣地の中学校のもの)。水飲場とかベンチに至っては思わず泣けてくるような代物なんだなこれが。。。

21_21 DESIGN SIGHT

東京ミッドタウン・とらやとMUJI(April 29, 2007)
東京ミッドタウン・SAYA、Ideaなど(April 30, 2007)

2007年05月01日 15:00 | trackbacks (0) | comments (2)

落語初心者のメモ, 身体と空間の芸術 : 中目黒系と人情噺

コーネリアスと花緑師匠。

4/5。CORNELIUS GROUP(小山田圭吾(Gt),あらきゆうこ(Dr&Fl),清水ひろたか(Gt&Bs),堀江博久(Key&Gt))のライブを見に渋谷AXへ。“SENSUOUS SYNCHRONIZED SHOW”のタイトルを与えられたステージは、4人の演奏とその背後一面の映像スクリーン、そしてフルカラーLEDを用いたライティングが見事にパッケージされたもの。カラフル。完璧。特に映像の素晴らしさは際立っていた。早くソフト化されないものか。
観客の年齢層はわりと高めで、まるで旧知の知り合いを見守るような、独特な暖かさのある落ち着いた雰囲気が心地良かった。かつてロリポップソニックだった人が、まさかこれほど強靭なオリジナリティを獲得し、『point』『sensuous』のような傑作を生み出すとは世の中分からないものだ。歳をとるのも悪くないな。

CORNELIUS


4/13。鈴本演芸場4月中席夜の部へ。この日の鈴本は開席百五十周年記念特別公演として、『花緑まつり』と銘打ったプログラムが組まれていた。台所鬼〆さん『金明竹』、林家二楽師匠の紙切り、林家彦いち師匠『みんな知っている』、柳亭市馬師匠『一目上り』、林家たい平師匠『あくび指南』、翁家勝丸さんの太神楽曲芸、橘家圓太郎師匠『馬の尾』、林家正蔵師匠(この時はまだ祝儀隠しはバレていなかった)『豆腐小僧』で仲入り、と言う贅沢さ。皆さん素晴らしかったが、個人的に一番シビれたのはたい平師匠。あざとい顔芸でもやらない限りあまり笑いどころの無い地味めな演目を、なんとも味わい深く、かつ上品に演じられていた。
最後はいよいよ柳家花緑師匠の『子別れ』。上・中・下を通しでたっぷりと。くすぐるような笑いを散りばめながらの情感のこもった人情噺に何度も涙。明らかにこの日の花緑師匠は以前曳舟で見た時とは次元の違う輝きを放っていた。仲入り後の時間を独り占めできたことも功を奏し、そこには完成された骨太な世界がかたち作られていた。
おそらく落語家・花緑師匠の魅力は“語り部”としての無二の資質にあるのではないか。演じる人の生き方そのものが反映されるのも落語なら、噺の持つ可能性を最大限に引き出すのもまた落語なのだろう。表現する行為の持つ様々な側面とその奥深さについて、思わず考えを巡らせた。

柳家花緑(Wikipedia)

2007年04月20日 16:00 | trackbacks (0) | comments (0)

落語初心者のメモ, 身体と空間の芸術 : 落語と一人喜劇

1、2月はなぜか落語を見る機会が少なかったが、今月は3本。加えてイッセー尾形の一人喜劇。

3/9。立川志らく独演会を銀座ブロッサムへ見に行った。昭和の三大名人に挑戦と銘打った高座での演目は『心眼』、『お直し』と『双蝶々』。どれも陰惨な内容の噺をどれだけ陽気に演じられるか、というのがテーマ。
志らく師匠の落語を見るのはこれが初めて。若干くぐもった言葉使いと、時折突発的に時事ネタを交えたりしながらの軽妙な話芸に独特の味わいがある。その場では大いに笑いながらも、後にはしんみりと重たい気分が残された。この感じはペドロ・アルモドバルか、北野武の映画を見た後にちょっと似ている。機会があれば志らく師匠の創作落語もぜひ見てみたい。

立川志らく

3/13。柳家花緑・林家たい平二人会を曳舟文化センターへ見に行った。
たい平師匠の演目は『お見立て』。お大尽を上手く騙そうとする喜助どんの芝居振りがみるみるエスカレートする様子があまりに見事で、お腹が痛くなるほど爆笑。たい平師匠の落語を見るのは昨年11月以来2回目だが、モダンで品格ある話芸に改めて感銘を受けた。今度は独演会を見なくちゃ。
花緑師匠を見るのは初めて。『不動坊』は以前に桂文珍師匠で見たことのある演目。両者を比較しながら興味深く拝見した。まだ独自の世界観を持つには到っていない印象ではあったが、仕草、動作の表現の仕方など抜群の演劇的上手さには見るものを引き込む力がある。今後が楽しみ。

林家たい平
柳家花緑(Wikipedia)

3/15。赤坂レッドシアターの『イッセー尾形のとまらない生活 2007 in 赤坂』10日目へ。イッセー尾形氏の公演にはここ1、2年プレリザーブに申し込んではハズれっ放し。念願かなって小さな劇場で見ることのできたステージは、想像をはるかに上回る洗練性と、アヴァンギャルドさを兼ね備えたものだった。この日最初に演じたのはムード歌謡グループ・東京ナイツの老齢のバンマス。大道具無し、BGM無し、照明効果無しの舞台にキャラクターが克明な姿を持って立ち表れ、その瞬間ステージは錦糸町のホテルのラウンジとなる。以降、数本の演目の間に幕は無く、尾形氏が舞台の脇で観客の眼にさらされながら着替えとメイクを行うことにも驚いた。なんと凄まじい喜劇か。

イッセー尾形

3/17。春風亭昇太・立川談春二人会を町田市民ホールへ見に行った。
初めて見た談春師匠は『大工調べ(上)』。高座の前にマッサージを受けて力が抜けたので、と与太郎の登場する噺を選んだそうだがどうして、凶悪で小賢い与太郎は実に個性的。長屋の大家との交渉でブチ切れた棟梁の啖呵はまさしくマシンガンのスピードと重量感。以前に小三治師匠で見たものとはまるで別物の『大工調べ』に談春落語の片鱗を見せていただいた。ぜひ独演会を見たいが、全然チケットが取れないんだよなあ。。。
昇太師匠を見るのは2度目。演目は『愛宕山』。小判欲しさに荒唐無稽な大暴れを見せる太鼓持ちのキャラクターはまさに師匠のハマり役。

春風亭昇太(Wikipedia)
立川談春

2007年03月31日 01:00 | trackbacks (0) | comments (0)

落語初心者のメモ, 身体と空間の芸術 : 落語とダンスと映画と音楽

怒濤の年末年始も2月に入ってようやく終息を迎えつつある。11月時点で4つあった仕事は、ひとつが完成し、ふたつが途中で無くなり、またひとつ増えた。現在は店舗と住宅の現場が同時進行中。

以下はそんな状況下で無理矢理時間をつくって見に行ったイベントなどの簡単な覚え書き。

12/12。柳家小三治独演会を銀座ブロッサムへ見に行った。教育問題を枕に会場を大いに湧かせた後の演目は『大工調べ』。与太郎の間抜けぶりが最高だ。家主との口論の場面で終了。
中入りを挟んで『小言念仏』。最初の枕がかなり長かったため、こちらは手短に。独特の間合いで十二分に笑わせていただいたが、もう少し聞きたかった気も。また別の機会を楽しみにしよう。

柳家小三治(Wikipedia)

12/16。勅使川原三郎『ガラスの牙』を新国立劇場へ見に行った。ステージは大量のガラスの破片を敷き詰めたふたつのエリアと、その周辺で展開される。以前に見た『KAZAHANA』(2004)や『LUMINOUS』(2001)に比べると、セットもライティングもつくり込み自体はシンプルだが、ガラスの反射光の使い方が実に巧み。空間全体の表情が繊細に、刻々と変化する光景を目の当たりにして思わず息を呑む。
ダンスのテンションの高さはさらに強烈だ。特に勅使川原氏のソロパートは凄まじく、空恐ろしいほど。他のパートでのマイクを通した囁き声や叫び声、ひょっとこ踊りのようなユーモラスな動きも印象に残った。

karas / saburo teshigawara

1/3。TOHOシネマズ錦糸町で『鉄コン筋クリート』を見た。果てしなく重層する背景画によって作り上げられた世界と、その中を自在に飛び回り、加速減速するキャラクターたち。これは2Dアニメの限界を突破した21世紀の絵巻物語だ。
声優陣も、Plaidによる音楽も素晴らしい。演出的には終盤クロの精神世界を描くシーンが個人的に今ひとつ感情移入し辛かったが、他のまとめあげ方は見事。原作の感動を削ぐこと無く、質の高い映像作品となっている。
しかし最後の最後に流れるアジカンは最低。明らかに蛇足で、映画を汚している。

鉄コン筋クリート

1/8。スターパインズカフェで近藤等則 ULTRA SESSIONS 2007 VOL.1の3日目を見た。正確無比な湊雅史のドラム、自由な展開を生み出す高田宗紀のターンテーブル、そしてメンバーを煽り、轟音を繰り出すレックのベース。ジャンル分け不能なグルーブを漂い、時に金切り声を上げるエレクトリックトランペット。フロアも終止大変な盛り上がり。
この日の近藤氏は心底楽しそうだった。20年ほど前に何度かみたIMAのライブではあり得なかったことだ。彼が日本のオーディエンスに失望して渡欧し、メジャーレーベルでは作品を発表しなくなってからずいぶん経った。おそらくその間に時代は変わったのだ。
年始早々凄いものを見た。幸先いいぞ。

近藤等則(Wikipedia)

2007年02月09日 03:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 手塚愛子「薄い膜、地下の森」

1/12。spiralで手塚愛子展『薄い膜、地下の森』を見た。

展覧会タイトルとなったのは吹き抜けに設置された大作。直径7mの円形のスチールフレームに帆布を張り、毛糸で刺繍を施したもの。

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刺繍面の下にはおびただしいボリュームの毛糸が垂れ下がっていた。フラットなパターンを描くために織られた5万本の毛糸は、造形的・空間的存在であると同時に、制作に費やされた気の遠くなるような時間と作業量そのものでもある。

他にも会場には織物を素材とする大小の作品が多数展示され、それぞれに興味をそそられた。

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一見うすっぺらな情報の背後にあるものをシンプルかつ緻密な手法で暴き出すやり方は、素材の古めかしさに反して極めて現代的だ。

手塚愛子展『薄い膜、地下の森』(January 5-18, 2007)

2007年02月05日 07:00 | trackbacks (0) | comments (0)

落語初心者のメモ, 身体と空間の芸術 : ダンスと落語とポルトガル音楽

ここのところlove the lifeとしてはかつてない忙しさ。クライアントの異なるちいさな仕事がいくつも同時進行していると、常に頭を使いっ放しの状態となり、作業を外注することが難しい。まさに孤軍奮闘(2人だけど)。一杯いっぱいとはこういうことか、などと思ったりもするが、今のところどの仕事もそこそこ楽しくやらせてもらっているので気分は良い。来週あたりにはそうも言ってられなくなるだろうけど。

さて、そんな状況下でも以前からチケットを取っておいたホールイベントにだけは足を運んでいる。以下はその内容についての覚え書き。

11/26。フィリップ・ドゥクフレ『SOLO』を天王洲・銀河劇場へ見に行った。
フィリップ・ドゥクフレ氏は一般的にはアルベールヒル冬期オリンピック開閉幕式の演出を手がけたことでよく知られるフランスの振付・演出家。氏のステージを実際に見るのはこれがはじめて。
フィリップ・ドゥクフレ氏と言えば奇抜なコスチュームとアクロバティックな演出、といったイメージが強いが、『SOLO』に登場するのはほとんど本人のみ。ダンスとそのライブ映像にビデオエフェクトを組み合わせての演出は、極めてシンプルながらまるで万華鏡を覗くかのように多彩なものだった。途中展開されるのは自身の生い立ちや家族を写真で紹介するパートと、それにまつわるエピソードから着想を得たパート、氏の身体表現のルーツである新体操の爆笑もののパロディや、尊敬するバスビー・バークレー(ミュージカル映画監督)へのオマージュなど。四十代も半ばを迎えたダンサーが、文字通り全身全霊をかけた貴重なパフォーマンスは、ダンスを見たと言うよりもエッセイか私小説を読み終えたかのような、不思議な印象を残した。

Cie DCA (Philippe Decoufle)

11/29。にっかん飛切落語会第308夜をイイノホールへ見に行った。演目は三笑亭亀次『道灌』、林家たい平『二番煎じ』、桂歌丸『井戸の茶碗』、桂快治『笠碁』、立川志の輔『Dear Family』。
たい平師匠を見るのは初めてだったが、正直、あんなに品格のある落語家だとは全く想像していなかった。今後はしっかりチェックさせていただかねば。歌丸師匠の演目は身分の違う2人の武士が正直者の屑屋を介して奇妙な縁で結ばれる人情話。美しい江戸弁が冴え渡り、可笑しくも心温まる。快治さんの芸は静かだが洗練されている。この人は大化けするんじゃないか。トリの志の輔師匠(やはり見るのは初めて)は現代ものの創作落語。セリフそのものは核家族にいかにもよくありそうなものだが、絶妙に練り込まれたシュールな展開と師匠の素晴らしく良く通る声が、狂気と爆笑の波動となって観客席を包み込む。凄いものを見た。

12/7。マドレデウスのコンサートをオーチャードホールへ見に行った。ポルトガルの5人ユニット。2本のクラシックギターとアコースティックベースとシンセサイザー、そしてテレーザ・サルゲイロの神懸かり的なヴォーカル。透きとおるようなハイトーンヴォイスをファド(ポルトガルの歌謡)特有のビブラートが揺らす。これ以上何も言えない。号泣。

Madredeus
MADREDEUS unofficial website

2006年12月16日 03:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術, 都市とデザインと : 河野鷹思+Max Huber/Jenny Holzer

10/13。神保町で打合せの後、青山へ移動。Originで髪を切ってからギャラリー5610で開催中の『2人展「河野鷹思+Max Huber」』を見た。

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河野鷹思(1906-1999)についてはこちらのエントリーを参照のこと。『商店建築デザイン選書』の装丁を手がけており、自身も和食店のアートディレクションを行っているため、グラフィックデザイナーのみならず、インテリアデザイナーにとっても馴染みのある先人だ。
マックス・フーバー(1919-1992)はスイスのグラフィックデザイナー。リナシャンテ、オリベッティ、ボルサリーノなどイタリア企業とのコラボレーションにおいて多くの業績を残している。バウハウスからの影響の見られるフォントや画面構成、そしてクリアでカラフルな色使いによるエレガントなデザインは、現代においても全く古さを感じさせない。今年スイスに美術館『m.a.x.Museo』がオープン。また没後初の作品集も刊行された。

展示されているのはポスターと装丁の作品が各20点ほど。おそらくなんらかの都合があってのことだとは思うが、マックス・フーバーの作品は比較的渋めなものばかりで(それでもジャコメッティの展覧会ポスターの構成は素晴らしかった)、結果的に河野鷹思の凄みが際立っていたように思う。上記の作品集の内容が素晴らしかっただけに少々残念だが、同じ印刷物と言えども書籍と実物とでは丸きり体験の質が違うこともまた事実。20世紀半ばのグラフィックデザインが持つ力強さを文字通り目と鼻の先で体感できる貴重な機会であることは間違いない。会期は水曜日までなのでお早めに。

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さらに日暮里へ移動して、SCAI THE BATHHOUSEで開催されていたジェニー・ホルツァー(1950-)氏の展覧会へ。『Xenon』プロジェクトを記録した写真の超大判プリントが数点と、84個の小型LEDディスプレイによるインスタレーション。

『Xenon』はキセノンランプによるプロジェクターを用いて世界各地のパブリックスペースにテキストメッセージを投影するインスタレーション。英語力がからきし無いため、どんなメッセージが投影されているのかは私たちには分からない。しかし歴史的建造物に対して、その形状とはまるで無関係にべったりと貼り付いたサンセリフの巨大なテキストは、それ自体が十二分にショッキングなビジュアル。畳一帖分くらいの大きさはありそうなマットな印画紙にプリントされたモノクロの緻密な画面が、そのインパクトをさらに強烈なものにしていた。

展示室奥の壁一面を使ったインスタレーションは、葉書よりひとまわり大きいくらいのLEDユニットの配置で構成されていた。各ユニットごとにタイミングをずらしながら横流れに表示される同一のテキストメッセージは、その輝度の高さと単純さにおいてある種暴力的であると同時に極めてスタイリッシュでもある。何が述べられているのかが分からないだけに、私たちにとってこのカッコ良さはかえって危険だ。ユニットごとにバラ売りしていたので、思わず衝動買いしそうになったが、ひとまずぐっとこらえておく。

近頃いわゆるファインアートに飽きが来てしまっている私たちだが、この展覧会の完璧なプレゼンテーションと、作品のプロダクトとしてのクオリティの高さにはすっかりやられてしまった。グラフィックとか建築とか、あるいはアートとかデザインとか、そう言った既存のフォーマットを無効にしながら自らを環境化してゆくような表現に強く惹かれる。

JENNY HOLZER : FOR THE CITY (CREATIVETIME)
Neue Nationalgalerie: Installation von Jenny Holzer (YouTube)
ベルリン新国立ギャラリー(設計:ミース・ファン・デル・ローエ)での展示

2006年10月15日 06:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 円山応瑞・鯉魚図襖

9/18。東京国立博物館で抱一の『夏秋草図屏風』を見たついでに他の展示作品も少しだけ鑑賞。中でも抜群にグッと来たのがこの小さな襖絵。

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円山応瑞『鯉魚図襖』。応挙の子息による極めて洗練された画。
それにしたって、なんでまたこのアングルなのか。

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全体を見るとこんな感じ。左側の画面が至ってまっとうに描かれていることから、画面の途中で空間がねじれたような印象が生まれている。こういうアヴァンギャルドなのが18世紀あたりにシレっと描かれてたりするのが日本画の面白いところ。

2006年09月26日 07:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 夏秋草と風神雷神

9/12。出光美術館へ『国宝 風神雷神図屏風「宗達・光琳・抱一/琳派芸術の継承と創造」』を見に行った。俵屋宗達(生没年不詳)、尾形光琳(1658-1716)、酒井抱一(1761-1829)がそれぞれに描いた『風神雷神図屏風』が66年ぶりに一同に会する展覧会。

前半の展示は3つの『風神雷神図屏風』に詳細な解説パネルを加えて構成されている。時折ふたつの図をCG処理で重ね合わせながらの比較は分かり易く、参考となるものだった。
後半は梅、杜若、秋草などの画題において、宗達・光琳・抱一のあいだでどのような参照と展開があったのかを紹介する展示となっている。こちらも風神雷神図に劣らず充実した内容。

『風神雷神図屏風』に限って率直な感想を言えば、宗達のオリジナルに勝るものは無い。光琳、抱一とコピーを重ねるごとに描写は良くも悪くもマンガ化してゆく。それは結局のところ、光琳、抱一の風神雷神図がスタディの域内にあることを示すのだろう。
オリジナルを乗り越えて新たなオリジナルを生み出すことは、参照をなくしてはあり得ないのもまた事実。現に風神雷神図を経た上で、光琳の『紅白梅図屏風』、抱一の『夏秋草図屏風』という二曲一双(二枚一組の二つ折り屏風)の傑作が生まれている。

と、そんなことを、展覧会の前半・後半を通して見ることで明快に理解することができた。『紅白梅図屏風』を見ることができなかったのは残念だが(同じ画題で風神雷神図との関連の薄い六曲一双屏風は展示されている)、『夏秋草図屏風』の草稿が展示されているのは何とも嬉しい。実に構成の巧みな好企画だった。勉強になりました。

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さて、抱一の『夏秋草図屏風』(1821)だが、ちょうど先日まで東京国立博物館・本館7室での展示が行われていた。そんなわけで、9/18の最終日に滑り込み。敬老の日ということで、入館料が無料というおまけ付き。しかも国立博物館の平常展は、一部を除いて作品の写真撮影がOK(もちろんフラッシュはNG)と来ている。おお、太っ腹。

展示室を訪れると、東京芸大の学生さんによる『夏秋草図屏風』の解説が始まったところ。資料をもらって、興味深く拝聴させていただいた。
写真の方は全部ピンボケ。無念。

この屏風絵はもともと光琳の『風神雷神図屏風』の裏側に抱一が描いたもので、1974年に保存のため分離された。その構図や画題の選択には表側との様々な符合があることが知られている。
金地に浮かぶ天上の神々。応える野の草花は銀地を背景に匂い立つ。瑞々しく、かつ装飾的で、夢の光景にも似た抱一晩年の表現は、180年以上を経た今でも斬新なままだ。

国宝 風神雷神図屏風「宗達・光琳・抱一/琳派芸術の継承と創造」
「重文 夏秋草図屏風 酒井抱一筆」 公開

2006年09月19日 08:00 | trackbacks (0) | comments (2)

身体と空間の芸術 : lumps & bumps

9/12。青山・spiralで『lumps & bumps —ラング/バウマン的スパイラルの感じ方—』を見に行った。勝野は9日に続いての再訪。

ラング/バウマンはスイスの2人組アートユニット。日本でのイベントはこれが最初とのこと。

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インクジェットプリントのカーペットによる『beautiful corner #4』。カフェのフロアにも作品が敷き詰められている。

もう、ずっとこのままにしといていいんじゃないか、と思わせる完成度の高さ。

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アトリウムには巨大なバルーンがぎっしり。こちらは『comfort #2』という作品。バルーンには人が乗っても大丈夫な強度があって、子供はもちろん、時には大人もこの上で飛び跳ねたりしている。運動神経の鈍い私たちは遠慮しておいた。

スロープを上り、アトリウムを見下ろすと、有機的な形態が内蔵組織を思わせる。この日は昼休みをバルーンの上で寝て過ごす人が一人。

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アトリウムからスパイラルマーケットを抜けたところのオープンスペースへ。こちらにもインスタレーション『perfect #4』が。同一形状のゴールド色の樹脂性ブロックが、様々な向きで壁面に配置されている。青山通りを見下ろす窓面が、ゴールドの半透明シートで覆われているのも面白い。

どの作品も理屈抜きで楽しく、しかもspiralの空間(設計は槇総合計画事務所/槇文彦氏)が持つ魅力を見事に引き出していることに感銘を受けた。ラング/バウマンのホームページに掲載された作品を見た限り、このプロジェクトはおそらく彼らにとって代表的な仕事のひとつになりそう。いろんな意味で、必見の大穴イベントだ。

lang/baumann

槇総合計画事務所/槇文彦
spiral

2006年09月18日 13:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : プライスコレクション 若中と江戸絵画

8/27。東京国立博物館で開催されていた『プライスコレクション 若中と江戸絵画』の最終日に滑り込み。

16:00頃に正門を訪れると、入場まで30分待ちとのこと。平成館前にずらりと延びた行列の最後尾に並ぶ。思いのほか進みは早く、10分くらいで館内へ。エスカレーターを挟んで6室に分かれた会場のうち、やたらと混雑していたのは若沖作品が多数展示されていた2番目の部屋まで。以降は割合ゆったりと観ることができた。閉館の30分ほど前にガラガラの会場を逆行して、若沖をもう一度鑑賞。『鶴図屏風』に見られる単純化されたフォルムとそのバリエーション、『雪中鴛鴦図』の水中から半身をのぞかせるオシドリを中心とする巧みな画面構成に唸る。

広告物でのメインビジュアルとして用いられていた『紫陽花双鶏図』も、展示の目玉として扱われていた『鳥獣花木図屏風』も無論素晴らしかったが、このイベントの最大の見所はなんと言っても最後の2室にあったジョー・プライス氏入魂の特別展示だろう。ここで展示作品を照らすのは主に側方からのライティング。その光量と色温度はゆっくりと変化するようにプログラムされていた。作品のセレクトは明らかに演出効果を引き出すことを主眼においたもので、そこにテーマや歴史的な意味合いでの一貫性が無かったことは残念と言えば残念だが、日本家屋での自然光のうつろいを思わせるライティングのもと、各作品が見せる様々な表情はとても興味深いものだった。
この展示で最も印象的だったのは酒井抱一の『佐野渡図屏風』『十二か月花鳥図』。おそらくフラットなライティングのもとでは何でも無い画面にしか見えないであろう『佐野渡図屏風』が、静かに降り積もりつつある雪をあれほど豊かに表現したものであったとは、まさに目からウロコだ。『雪中美人図』(礒田湖龍斎)に描かれた白地に白い柄の着物の表現、『白象黒牛図屏風』(長沢芦雪)の大胆なデフォルメと構成も見事だった。
9/23から開催される京都展では『十二か月花鳥図』をなんと自然光のもとで展示するらしい。これを観るためだけにでも京都に行きたくなるなあ。合わせて細見美術館で鈴木其一も観たい(傑作揃いのプライスコレクションだが、其一についてはどうも不発気味だった気がするのは私たちだけだろうか?)。

他にも記憶に残る作品を挙げ始めるときりがないくらいだが、中でも森狙仙の描く猿(『梅花猿猴図』『猿猴狙蜂図』)には強烈に心を動かされた。一瞬を捉えたその間合いの美しいこと。

2006年09月02日 01:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 日本X画展

7/15。横浜美術館へ『日本X画展(にほんガテン!) しょく発する6人』を見に行った。

展覧会タイトルに付けられた脱力系のフリガナが否応無しに危険な香りを感じさせるが、とにかくケンゴさん(中村ケンゴ氏)の新作があるんだから見に行こう、と言うわけで開会式が終わった頃に到着。ものすごく顔色の悪いケンゴさん(お疲れさまです)に軽くご挨拶してから順路に沿って会場を一周した。

横浜美術館の企画展示室はアトリウムに面したオープンスペースを中心にバラバラと配置されていて、ひとつの部屋から別の部屋への移動にはその都度このオープンスペースを介することになる。一人の作家やひとつのムーブメントの変遷を追うような展覧会だと、せっかく高まった集中力をいちいちリセットされるような動線に興醒めとなることが多いが、『日本X画展』は6人の全く作風の異なる作家を併置する内容だったため、このオープンスペースが各作家間のちょうど良い干渉としてめずらしく有効に働いていたように思う。なるほど今時の日本画界(とその周辺)はけっこう面白いことになっていそうだな、と、日本画の知識を全く持たない私たちにも興味深く楽しむことの出来る展覧会だった。

さて、ケンゴさんの作品があれほど贅沢に展示されているのを見るのは初めてだったが、中でもこの展覧会のために多くを追加制作したという『コンポジショントウキョウ』シリーズは圧巻のボリューム。一見して無表情な記号的モチーフをわざわざ日本画の技法で描くやり方は、デザイナーならまず感涙もののクールさだ。これを見るだけでも観覧料分の値打ちがある。『スピーチバルーンズ・イン・ザ・ヒノマル』と横山大観『霊峰不二』の見事な共演にもシビれた。濃淡のある画面上にフラットな記号がレイヤー状に重なったような新作シリーズ『自分以外』は新しい方向性を感じさせるものだった。

他の作品ではしりあがり寿氏の巨大インスタレーションがなんとも痛快。『琳派 RIMPA』(東京国立近代美術館/2004)にも作品を提供していた中上清氏による深遠な世界からの光を感じさせるアクリル画は、平面を超えた「もの」としての迫力に満ちた衝撃的な作品だった。

日本X画展(にほんガテン!) しょく発する6人(横浜美術館)

小瀬村真美
しりあがり寿
中村ケンゴ
松井冬子

2006年07月23日 01:00 | trackbacks (0) | comments (1)

身体と空間の芸術 : life/art '05 須田悦弘

060326_lifeart05.jpg

3/26。銀座・SHISEIDO GALLERYで開催されていた『life/art '05』へ最終日の夕方に滑り込み。

このイベントは田中信行氏、今村源氏、金沢健一氏、中村政人氏、須田悦弘氏のリレー展。本当は全部見ておきたかったんだけど、結局2回しか来られなかった。残念。
この日の展示は須田悦弘氏。ギャラリーで須田氏の展示を見るのは初めてのこと。

過去に私たちが須田氏の作品を実際に見たのは2001年に香川県の直島で開催された『スタンダード展』だけ。島中に散らばった会場のうち、須田氏は実際に使われている民家の客間でインスタレーションを行っていた。木彫は日用品へと偽装され、そのことが生活空間の中に微妙な違和感を醸し出す。生活とアートとの関係性を操作し、関係性そのものを作品とする須田氏の作風は、空間デザインを生業とする私たちにとって極めて興味深いものだった。

ここでの須田氏の展示は素のハコとしてさらけだされたSHISEIDO GALLERYの真っ白な空間にちいさな作品が数点のみ。からっぽにしか見えない会場の中を注意深く歩くと、本物に見紛うほどリアルな椿の花(言わずと知れた資生堂のシンボル)の木彫が思わぬところにぽつんと置いてある。エレベーターシャフトを覆うガラスの中、パイプスペースのメンテナンス扉の内側などにそれらを見つけると、途端にその場所が茶会の床となり、さまよい歩いた過程はさながら露地だったのだと思い当たる。インスタレーションも巧みだが、ここまでミニマル化された間合いの芸術は、やはり木彫そのものに力が無い限り実現することはないだろう。

会場の一角に木彫たちを一望することのできる場所があった。不整形な平面を持つギャラリーが、そこに立った時だけ奇麗な左右対称のパースペクティブを見せることに私たちは少し驚いた。
もしかすると須田氏もここからこの空間を眺めたのだろうか。

life/art '05 (SHISEIDO GALLERY)

2006年03月28日 02:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 山海塾「時の中の時 - とき」

3/18。世田谷パブリックシアターに山海塾の『時の中の時 - とき』を見に行った。計5作品が上演される日本ツアー2006のオープニングとなる作品で、2005年12月・パリ市立劇場初演の最新作。

落語にしろダンスにしろ芝居にしろ、パフォーミングアートというものは実際に劇場の座席に身を置かずに評価をする事は丸きり不可能だ。とは言え、予備知識の無い状態で面白そうかどうかを判断するには、チラシや雑誌に載った写真などを見てなんとなく空想を膨らませるより他は無かったりする。
私たちは劇場にはたまにしか足を運ばないのであまりあてにはならないかもしれないが、そうして事前に得られる印象と実際のステージから受ける印象との間に、山海塾ほど開きのあるダンスカンパニーもおそらく少ないんじゃないかと思う。だいいち、全身を白塗りにした半裸の男性が身をよじらせる写真を見て「なんか良さそう」と思う人よりも「気色悪っ」とドン引きする人の方がはるかに多いに決まっている。

ところが、山海塾のステージからは写真で見るようなおどろおどろしさとはほとんど感じられない。それは実に美しく洗練され、時にユーモラスで可愛らしくさえある。

『時の中の時 - とき』はおそらく山海塾の作品の中でも割合要素の少ないもののひとつだろう。中空に浮かんだ細い金属パイプのサークルとポール、明るい砂の上に斜めに敷かれた長方形の板、それらを取り囲むように半円形に配置された数枚の黒い壁の中、パフォーマンスは終止静かな動きによって展開される。装置の入れ替えはほぼ無いに等しいが、ほんのわずかな高さや角度、光の移ろいによって、ステージは刻一刻とその表情を変えてゆく。それらの微妙な間合いが醸す気配のようなものがこの作品の全てであると言って良いだろう。そして一際明るい光と軽やかな群舞がもたらす甘美なクライマックスが、そのままこの作品の幕引きとなる。

この世界をもっと見ていたい。そう思わずにはいられない作品だ。このツアーでは一公演だけ見るつもりだったんだけど、ロビーの仮設テーブルで売られていた次作のチケットをついまた買ってしまった。

山海塾
時の中の時 - とき

2006年03月22日 09:00 | trackbacks (0) | comments (0)

身体と空間の芸術 : 宮島達男「FRAGILE」

3/4。宮島達男「FRAGILE」を見に行った。

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場所は谷中霊園そばの『SCAI THE BATHHOUSE』。当地に200年ほどの歴史をもつ銭湯『柏湯』を改装したギャラリー。天井高のある魅力的な大空間を持つ。下の写真はその外観。

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宮島氏の新作展を見るのは2002年にここで開催された「WHITE IN YOU」以来のこと。当時の展示を思い出しながら、今回の「FRAGILE」を見ると面白い。どちらも宮島氏のトレードマークとも言える7セグのデジタルカウンターを主要な素材としてはいるんだけど、それぞれの作品シリーズの印象は対照的だ。
『WHITE IN YOU』(2002)はLEDと平面ミラーの組み合わせによる作品シリーズ。LEDの発光部分のみ銀吹きを抜いたミラーの底から白い数字が浮かび上がる。えも言われぬ奥行き感を伴ったそれらの作品は、およそハードウェアとしての実体を意識させないほど細部まで見事に洗練されていた(まさにデザイナー魂をシビれさせるオブジェ)。
対して今回の『FRAGILE』(2006)ではおそらく配線を兼ねた網状の立体フレームの中に無数の小さな赤いLEDカウンターがちりばめられている。カウンターの配置はランダムで、カウントするスピードもまちまちだが、直径1mmに満たないようなか細いフレームによって繋がり合い、互いに支え合うようでもある。FRAGILEのタイトル通り、それらの存在はいかにも脆く儚げだ。他に水槽と赤色LEDによる作品や、タペストリーガラスにカウントが浮かび上がる作品『Counter Window』の展示もあった。

「WHITE IN YOU」と「FRAGILE」の対比は私たちに“聖”と“俗”を思い起こさせる。それらは一見遠く隔たっているようだけど、どちらも私たちの生きる世界のある一面をあらわしているように思う。

宮島達男「FRAGILE」
SCAI THE BATHHOUSE

2006年03月08日 17:00 | trackbacks (0) | comments (0)
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